短編 鬼 | ナノ

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初恋 4

あの日から、どうにもおかしかった。
胸が、痛いのだ。
その痛みは普段は襲っては来ない。ただ特定の条件下でのみ起こる現象であり、鬼殺に影響を及ぼすものでは無かった。
__まぁ、今ならわかる。
けれどその時の俺は、鏡に写った自身の情けのない赤らみ惚けた顔が信じられずに鏡を砕いてしまった。
それが匡近に連れられて来ていた、花屋敷の鏡だったものだから頂けない。
もう、全てに於いて、情けない。

先ほどまで、自身を治療していた女を思い出していた。


「もう、ダメよぅ。怪我をしたのならちゃんとした治療をしなくちゃ、感染症に罹るんだから」

そう、本やら、書類やら薬瓶やらの山と置かれた一室で、こちらを手を握りながら𠮟りつける女性隊士、否_花柱の姿に、あの少女の姿が重なっていく。
ただ、どことなく似通ったところがある。
例えば、肩口に流れていく艶やかな髪の黒さだとか、どこか気の抜けた、話し方だとか。
なんてことの無い、仕草。そう、その、髪を耳にかける仕草。それを名前がすると、こんな感じなのだろうか。_とか。
そう思った。ただ、その程度だった。
ここに来るのは幾度目か、そんなに頻回ではないにせよ、面倒な兄弟子が居るのだから、それなりに、ではある。
その度に、似ている、と思うのだ。
そう思ってしまったから、思い出してしまっていたのだろう。そうだ。

「なァ、肺の、病……あったろォ、」
「え?……えぇ、そうね。いくつか」
「……治療、出来るかァ」

自分は、医学もからっきしだ。
けれどこの女なら、何かしてやれるのではないか、と、そう考えた。
俺はもう名前を知ってしまっているのだ。
もし治せるのであれば、治してやりたい。そう思う事は、知人で有れば、いっそ当たり前だと思う。
そこには、決して二心は無かった。
ただ、生きていてほしい。
それだけなのだ。



「また、週明けには用意しておくわ」

どこか真剣な顔で言葉を紡ぐ女に、小さく頷いて、「頼んだァ」と、そう告げた。

「それはそうと、その子を治療すると約束が出来たら不死川君もきちんと治療に来てくれるかしら?」

そう笑う胡蝶カナエ_その女に小さく舌打ちとため息を落とす事しか出来なかった。
その部屋を出てすぐの所に、待機していたらしい匡近が真っ白な壁に張り付けていた背中をよっこらせ、とでも言うように持ち上げて

「実弥、顔、赤いぞぉ」

等と。

「ッ、赤く、ねェ!!」

だからだ。気になってしまったから、廊下に置いてあった鏡。
そこに自身の顔を写してしまった。
あとは、もう言うまい。
近くを通りかかったこの屋敷の人間に、適当に金を握らせて、「悪ィ」とだけ。その少女を制して、破片だけ拾い集めて匡近の持っていた手拭いにくるんで渡した。

「もう、お前、本ッ当になにやってんだよ!!ってか、あれ俺のだろ!」

そう言いながら前を歩く兄弟子の背中を、俺はこれでもかと睨みつける事しか出来なかった。

ふ、と先ほどの女隊士と胡蝶を思い出して、_つまり、独特の蝶の髪飾りを思い出していた。
砂を蹴とばすように砂利道を踏みしめながら、__次は、髪飾りでもやるか。
等と。

匡近と任務が被っているときは、稽古やら、治療_もちろん俺の、だ。やらで忙しかった。
花柱も、花柱で、柱、と言うだけあって、約束をしていた日に会うことは叶わなかった。__奇しくも、それ以降、俺と花柱_胡蝶の時が重なることは酷く少ない。
それは、俺の階級が上がっていったことにも起因すると思う。__いや、むしろそれなのだろう。

色々あった。
リボンと、藤の香袋を送り付けて、返ってきた手紙。
それを読むこともやめてしまう程には。
そう。
色々。


匡近が、死んだ。
だから、柱になった。
胡蝶カナエが、死んだ。

じきに、もしかすると、俺よりももう少し早くに、あの少女も、名前も死ぬんだろう。

もう、たくさんだった。
鬼が憎い。
何者をも、守れない、己の羸弱さが憎い。
全部が、憎い。


あれから、どれ程経っていたか、もうわからない。
何も考えたくは無かった。全てを忘れてしまいたかった。
兎に角、

雨が、降っていた。
地を濡らしていた。
ぬかるんだ地面に生えた草葉も相まって、酷く滑りやすくなっていた。
血も、雨のおかげでいつもより止まるのが遅い。
止血方法は身に着けた筈なのに、どうしたものか。深く斬り過ぎたか。__いや、多分、そうじゃない。
俺は、止血していない。
死んだって、良かった。
どうせ、稀血。これからも鬼の良質な餌である事には変わりない。
俺よりも強い人間など、これからいくらでも出てくるだろう。何も、身体の話ではない。匡近のように、誰にでも手を差し伸べる、優しい人間が。
もう、死んでしまっても、良かったのだ。
自殺は、出来なかった。それだけで。
これなら、多分自殺じゃねぇだろ。
だから、死んでしまえば、良かった。
ぱたぱたと顔にぶつかる雨粒も、月をすら隠してしまっていた分厚い雲にも、俺は鋭く舌をうった。
首を横に向けると、身体が崩れ去っていく鬼の姿があった。

「ざまぁみろォ」

音になったかは、わからない。
けれど、それでもう十分だった。
これでいい。終いで良い。もう、十分やったろぉがァ。
__誰か、俺を連れていけよ。

足音がした。
多分、隠か誰かだろう。
そちらに顔を向ける為に、顔を動かした。
ようやっと刺してきた陽の光を浴び、その小さな身全部に重たげに雨粒を載せて、俯くかのように下を向いていたそれがゆっくりと花開いていく。

隠の足が、すぐそばに来た。

「踏むなァ」
「あ、は!はい!!」

どれくらいかかっていたのかはわからないが、その花は、体全部を下へと向けているくせに、その花弁だけをひたむきに空に向かって持ち上げていくのだ。
そのうち、地へ伏した俺の顔を笑うように、ゆっくりと面を上げて、凛と花開く。

『ありがとう。』

あの音が、響いた気がした。

「……クソ」

もう血は、止まっていた。
その開ききった花を摘んで、爽籟に持たせた。
緩慢な動作で身体を起こしてから、

「すまねェ。……近くの、藤の家までで良い。頼めるかァ」

一つ、息を落とした。
情けないが、自身の足では、暫く歩けそうにない。
身体が酷く重い。けれど、俺は確かに生きるために、隠の手を取った。



『ありがとう。』

たった一言。
それだけだった。
藤の家に爽籟が持ち帰った、手紙、というには粗末なその紙切れは。
きっと、渡す前に破いたのだろう。
おかげで、その紙は歪な四角になっている。
然程、付き合いがあったわけではない。だからわかる事ではない。本人の確認を取らなければ。それでも、本当はここに、もう暫く言葉は続いたのだろう。
いつもそうであったように。
それが知りたくなった。
一体、何を書いていたのか。
アイツだけが違う世界に住んでいる人間のように、花が開くような笑顔で、今度は何と言ったのだろう。
今度は、何を想像して喜んだのだろう。

俺だけを残して廻るこの世界で、名前だけは変わらなかった。
『ありがとう。』から始まるそれだけは、変わらなかった。


これで、終いにしよう。
そう決めていた。だから、直接渡しに行く事にしたのだ。
俺はいつ死ぬのか分からない人間だ。
もしかしなくとも、ああやって、あっけなく死んでしまうのだろう。そうして、名前は来もしない手紙を待つんだろう。
あの日のように、切り株に腰かけて。
木々の隙間から漏れる空を見上げて。
幾日も幾日も。
雨の日は、あの薄暗い離の中で、窓の外を眺めているのかもしれない。

すでに晴れ上がった空からは、分厚い雲は消えていた。



まだ程明るい頃だった。
二度とも腰かけていたその切り株には名前が居ない。
それ以外の景色は、あの日と変わることは無い筈なのに、名前の姿が見えることは無い。それだけで、ただの薄暗い木の林立した山中に佇む家。
ただの、良くある景色。
特別な物など、何一つとして無かった。

いない。
その言葉が、厭に頭に響く。
心臓が痛い。
左手の指先が熱い。
無理矢理に足を動かして、彼女がいつも踏んでいた石畳を踏みしめる。
離の、扉を幾度か叩く。

とんとん
__とんとんとん

小さく返ってきたそれに、止めていたらしい息を、俺はようやっと吐くことが叶った。
扉の方ではない。日の当たる、窓の方からその音が聞こえた。
なぜかはわからない。
けれど彼女は俺だと確信して口を開いていた。

「まわってきてくださいません?窓があるの」
「……」

その言葉通りに、窓の傍に俺は腰を下ろした。
最後だから。
少しだけ、長居しても、良いのではないか。どこかでそう考えていたのかもしれない。今思うと、甘えていたのだと思う。あの柔らかに咲く笑顔に。

「覗いちゃ、嫌ですよ」
「……」
「たくさん書いたんです。お手紙。この間みたいに、間が空いてしまうかもしれないでしょう?
だから、直ぐに来た時に渡すものと、ちょっとだけ開いたときに、渡したいもの。それから、凄く開いたときに、渡すもの!!」

以前聞いた時よりも、幾分か声が細くなっている気がする。
それでも、はつらつ、とはいかないまでも、楽しそうに語る彼女の言葉が降ってくる。
それと一緒に、頭の上にはら、はら、と。
『たくさん書いた、』という手紙だろう。それが、降ってくる。

「今、全部渡してンじゃねぇかァ」
「ふふ、まだあるのよ。……これはね、早く送ってきてって、催促のお手紙よ。
これはね、もう要りません。って、拗ねて書いたときのもの。これはね、寂しいです、って、甘えていた時の物よ。
それから、……あ、これは要らないわね。ええと、これは、また来て欲しいって、おねだりを書いたのよ。」

言いながら、ぽいぽいと、窓の下、腰かけた俺の上に落としてくる。
そのうちの一つを開き、読むのをやめた。
指先が熱いのだ。

「だから、全部渡してんじゃねぇよ」
「ふふ、あのね、香袋。本当に嬉しかったの!ずっと、不死川さんと居るみたいで!
香袋をね、枕元に置いて、頂いた本を読むのが日課よ!ロマンチックでしょう?」
「……そぉかィ」

目に、膜が張っている_と思う。
ぐ、と唇を噛み締めて、ただただ見られることの無いように、まっすぐ前を向いた。
すぐ向こうを横切る、猫を見た。

「きっと、色んなことがあったのよね。…ねぇ、不死川さん、見えるかしら。」

その言葉に、ちら、と視線だけをやると、細く、細く白い腕が格子の隙間から顔を出していた。

「……アァ」
「ねぇ、一度だけで良いわ。握ってくれません?私、一度は殿方と手を繋いでみたかったのよ」
「もっとマシな男誘えェ」
「やぁね、こんな所に来るもの好きは、不死川さんくらいしかいないわ!」

あっけらかんと返される音に、口元が緩む。
もう太陽が、傾いていた。
そろそろ戻らなければ、午後の任務に支障が出る。
そろそろ、帰らなければ。帰れなくなる。

その細い腕に、手に、指をそろそろと絡めていく。
矢張り、__熱い。

「光栄だなァ」
「でしょう!」

またふふふと、笑う音を聞きながら立ち上がり、その手を少しだけ強めに引くと、後付けの格子の嵌まった窓口の隙間から名前の顔が覗いた。
__思ったよりもずっと元気そうだったのを、顔は思い出せなくなった今でも覚えている。
ひゃ、と喉から音を出しながら、もう一つの手が格子にかかったところを、上から握り込むと、段々と名前の頬が色づき、緩んでいくのが見えた。

「覗いちゃ嫌よって、言ったのに、…もうっ!」
「笑ってんじゃねぇかァ」
「嬉しいんだもの!」
「そりゃあ、よかった、なァ……俺ァ、もう行く」
「あら、そんな時間なのね」
「……やる」

片方だけ手を離して、懐からまた香袋を渡す。

「わぁ、素敵!!ふふ、ありがとう!!…不死川さんには、どうして欲しいものがわかるのかしら!
ねぇ、私には、渡せるものが無いのだけれど、……あ、少しだけ待っていて!!」

するりと、解かれた手が嫌に冷めた。
もう少し。
そう思ったのは、辺りがひんやりしていたからだろう。
あのときは、そう思っていた。
そう、思っていたかった。

「やっぱり、無かったわ!!」
「ねぇのかよ」

ふは、と口から息が漏れ出た。
どれくらいぶりに笑ったのか、俺ももう、わかりはしなかった。しなかったけれど、窓越しに、くすくすと零れる音を聞くのは、不快ではなかった。
そうだったと思う。


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