短編 鬼 | ナノ

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モーブの瞳は私を見るか

下駄箱をあけると独特のにおい。
生臭い。
それは決して靴とか、足の汗とか、擦りきれているゴムとかそういった類いではなく、所謂、生ゴミ。
そういったものを片付けて、靴を春独特の心地よい冷たさの水で洗って、それから事務室でスリッパなんかを借りる。
それが私の一日の始まり。
先生たちは見て見ぬふりをして、所謂ことなかれ。
だから、特段私も云うことはない。
言っても「注意をしておく」と。
本当に注意をしてくれたとして、そのしっぺ返しは私に飛んで来る、つまり八方塞がりのこの現状で私に出来ることは、
その針をより太いものに変えられないように、静かな貝になること。

憐れましいことはわかっている。

降ってくる言葉はまるで小さな小さな針になって私の心の臓に突き刺さる。
憐れみの視線がそっとそれを押し込んでいって、ちょっとずつ、ちょっとずつそれを抜くことのできないものへとしていく。

ガヤガヤとした教室。
キラキラと舞ったほこりが踊る。
所謂、幾何反射。
話し声の中から自分の名前を聞きあてる。
そこに嵌まる言葉をさがしてしまう。罵倒。
所謂、カクテルパーティー現象。
馬鹿みたいに毎日を下らなく過ごす貴方たちの方が憐れだわ。
と下らないプライドが相手を見下げる。
けれど、本当に憐れなのは自分であるという事を実のところは理解している。
所謂、スコトーマ現象。
こんな下らないことにいちいちついている現象としての名前の鬱陶しい。
それだけ皆が皆苦しんでいるんだなぁ。
なんて、世界のどこかの同族を探して。
どこかで安堵する。

教室の空気が息苦しいと感じるようになったのはいつのことか、
もう覚えてはいないけれど。
酸素不足で自由なはずの水の中で苦しんでのたうっている魚のごとく。
私はずっと息ができないでいる。


「今日転校してきた、不死川実弥くんだ」

先生の紹介に、チラリと教壇に目線をやる。
ほこりの幾何反射なんかは目でないほどの、美しい純白が光を受けてまるで美しい宝石を巻き付けているよう。
色素の薄い肌に酷く馴染んで。
アイリスのような、モーブのような。宝石の嵌まったように見える、どこか厳しい色を含ませた同級生とは思えない既に完成されたそのかんばせの美しさ。
私の少ない語彙力では表しきれない。
そんな美しさと怖さがそこにはあって。
この美しい瞳の中に入りたくなくて、
借り物のスリッパを椅子の下に入れ込んだ。

空いている席は、窓際に位置する不登校の末に退学してしまった私の隣の席の山口くんの物だったところ。
そこだけ。
だから、きっと彼はそこに座ることになる。

教科書を一緒に見てやれ。
と先生の振り落とす声の残酷なこと。

「……ごめんなさい。汚いのだけれど。」

この美しい瞳に、
落書きだらけの、汚い机と教科書の中身がさらされる。
それがとてつもなく恥ずかしい。
教科書をすべて買い替えてやりたくなった。
出来ないのだけれど。

「……いや」

一言だけ発された彼の言葉は日本語で。
初めて共通の言語を話せることを理解。
まぁ、日本人の顔をしているし、当然だな、とどこか遠くで考えた。
喉から転がった音は、ハスキーで。
どこか浮世離れした見た目の彼に、ひどく似合っていると思う。
引っ付けた机や、教科書、果てはノートまで。
ありとあらゆるものに、そこかしこに書き込まれた罵詈雑言も理解できるのだろう。
恥ずかしい。
彼の瞳は1度も此方を見ることはなく。
休み時間になると、いつもよりも賑やかな隣の席を尻目に今日を終える。
乾いた上履きを下駄箱にしまって、スリッパを返却。

帰宅もせずに、アルバイト先のファミレスで
いらっしゃいませぇ!
と愛想の良い声を出す。
学校とは違う。
誰も私の学校の様子を知らないから、化粧なんかもして、明るい人間のように振る舞って、私自身が下らないと吐き捨てている人間の真似事をして。

「ねーちゃん、連絡先教えてよ」
「店長に起こられちゃいますよぉ、」

下らない。
けれど、此処では私が認められている。
そう、錯覚できる。

これが、私の毎日で、日常。
ルーティンで、当たり前。


次の日も、スリッパをパタパタと鳴らして、教室に向かい。
授業が始まると、不死川くんと机をくっ付けて
教科書の共有。

「……」
「………ご、めんね。汚くて。」

開いたページが悪かった。
『援交女』
と記載されたそこを、隠すものは何もない。
酷く恥ずかしくなって、下を向く。
チラリと感じた視線と吐き出されるため息にピクリ、と私の肩が揺れる。

「……ごめんなさい。事務室に、借りに行ってくるわ。」
「いや、いい」

それきり。
それっきり、言葉を吐かなくなった彼は窓の外をずぅっと眺めて。
その姿の儚さに胸が痛んだ。

休み時間。
昨日よりもずっと静かなその席で、彼は静かに読書をしている。
昨日はクラスの女子に群がられ、「うざってェ」と一喝していて。
次の休み時間には強面のよそのクラスの強面の男子に呼び出され、傷ひとつなく帰ってきていた。
つまり、私の天使のようなその人は、
そういう人。

そうして、昼休みあと。
現代文の時間はまるで子守唄。
どこか遠くに先生の声を感じながら沈みかけた意識を浮上させたのは、
不死川実弥。彼の指が、教科書に書き込まれた文字をその指でなぞったから。
『ばけもの』
なぜ、そう言われるのか。
ひとえに、これは私の腕と背中に理由がある。
なんてことはない。
良くある話。
一年中、長袖のカーディガンを羽織る理由。
バイト先でも、長袖しか着用しない理由。

また、吐き出された吐息は憐憫なのか、苛立ちか。
きゅ
と握られた彼の拳は開かない。
スッ、と、教科書を抜き取って

「……先生、教科書を忘れました。不死川くんが見れないので、……え、と。……私、保健室に行きます。」
「……付き添いは、要らんな」

先生から吐き出された興味の欠片も感じられない温度のない音を背中に受けて、事務室へと向かった。

「……教科書を、購入したいのですが。」

1日も早く、家を出たくて貯めていたお金の使い道が、こんなにも下らないことで消える。
それでも、彼にああやって見られるのは嫌だった。
いけないものを見られているような、恥ずかしさで、死んでしまいそう。

教科書の取り寄せをしてもらい、
そう言えば、と手渡される。

「これ、同じクラスの不死川くんの教科書なの。ついでに持っていってもらえるかしら。」

渡された、教科書たち。
あぁ、これが有るのなら、やっぱり必要ないかしら。
なんて、
事務員の人にやっぱり取り寄せは要らないと伝える。
授業が終わりを告げるチャイムの音を聞きながら、重たい教科書の山を運ぶ。

濡れ羽色の髪をふり、同じクラスの瀬川さんが歩いてくるのが見える。
どうやら、私のクラスはチャイムが鳴る丁度で授業が終わったらしい。

「……あら、新しいのじゃない。名前、書いてあげなきゃ」

クスクスと、両隣に待機していた女子の声を聞きながら、

「……これは、不死川くんの、だから。」

と伝える。
私のものではないのだから、と。大切なもののように抱え込むと、肩を押され
手もつけずに、酷くお尻を打ち付けた。

「っ、いった、」

それから、振り落とされる足が、教科書に当たらないようにだけ。
それだけ。

他の教室から出てきた先生や、生徒たちが動き始めてから、彼女たちはフン、と鼻を鳴らして去っていく。

「……」

何を言うでもなく、差し出された手を見つけ、その先を辿っていくと不死川くんの顔。
見られた。
それが、本当に恥ずかしくて今の今まで浮かんですら来なかった涙が目に溜まる。
見られた。
見られた。

手早く、胸に抱えていた彼の教科書たちを押し付けた。

「……届いたそうだから。不死川くんの。」
「そぉかァ」

それだけ言った不死川くんは教室へと戻って行って、
私は恥ずかしくて恥ずかしくて、
その日教室に戻ることは出来なかった。
弱い自分を見られることの恥ずかしさを、その日初めて知った。

家に帰ることも出来ず、非常階段で空を眺める。
昼の盛りになると、少しだけ暖かくて
ほんのすこし、カーディガンをシャツごと捲った。
覗いた肌の汚さに、思い知る。
父から、母から逃げたところで、私に過去はつきまとい、
息をつける場所など、出来はしない。と。

息の仕方が、もうわからない。


朝、
パタパタとスリッパを鳴らして
教室に着く。
次の授業で使うノートを取り出して、教科書を探す。
ポン、と机の上に投げられた真新しい、綺麗な教科書。

「……今日も、見せてくれェ」
「あ、……これ、でも。」

それ以降声を発さない不死川くんの、不器用にも感じられるほどの優しさが、喉を伝って、背筋に走る。
脊椎を通り抜けるような、何とも言えない感覚が脳みそまで行き着いて、何故か胸で熱反応。

『ありがとう』

それだけ書いたノートを引きちぎって、
くっつけられた彼の机に乗せた。

フン、と鼻を鳴らした彼の真意はわからないけれど。
彼の横で、私は久しぶりに
息を吐き出した。

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