彼等ニ敵ウ者ハ無シ
幼い子の涙は、まるで宝石のように綺麗で。
「うっ……、先輩ぃい!」
「気にしなくていいよ」
三郎の腕の傷を見て、伏木蔵はわんわんと泣いた。
自分のせいで、自分のせいで。罪悪感に苛まれてやまない心を落ち着かせるには、ただ泣くしかなかったのだろう。幼いなりにいろいろな感情がある。
その気持ちがよくわかるから、三郎は伏木蔵の頭を優しく撫でてやった。
「ほら、大丈夫だから」
「だって、血が……」
少しでも伏木蔵を安心させる為に、三郎は負傷した腕をぐるぐると回して見せた。それでも、滲んだ血が伏木蔵の心を痛め付けてやまない。
今の伏木蔵は血といえば恐怖しか抱けない。立派な忍者になるにはこれくらい乗り越えなければならない壁なのだろうが、それでも無駄に鮮やかな赤い血が怖くて仕方がなかった。
「ごめんなさい……っ、僕が、穴に落ちたから、先輩が……」
「うん、わかってる、大丈夫」
優しい子だと思った。
自分が誰かに付けた傷、それもただのかすり傷で、これ程までに泣けるのは紛れも無く優しいという証拠だ。
それとも、ただ単に自分の感覚が麻痺してしまっただけなのだろうか。
もしそうなら、大きくなんてなりたくなかったな。
「せっ、先輩!」
伏木蔵は顔を真っ青にして、三郎の手を握った。
どうしよう、と三郎が思った時にはもう遅かった。
「あの、本当にすいませんでした……っ! うぅっ……」
「あー違う違う! これは元からだから!」
三郎は慌てながら、弁解しようともうひとつの傷を指で軽くなぞった。
もうすっかり過去の傷となっている。痛みを感じない程に。
「大丈夫」
時は二年前に遡る。
三郎が三年生の頃、彼は既に雷蔵の顔を借りて生活していた。
「なんだ、ハチか」
「おい三郎! 雷蔵の顔で悪戯すんなよ!」
いかにもつまらなさそうな顔をしている三郎と、怒って口を尖らせる八左ヱ門。
どうやら三郎が、八左ヱ門に何か悪戯をしたらしい。
「だいたいお前が――」
「あれ? どったのハチ」
喚く八左ヱ門を見て、兵助がきょとんとしながら歩いてきた。
その隣にいた雷蔵は恐ろしい程笑顔だった。三郎の顔から血の気が引くのに、そう時間はかからない。
「三郎が……、何かしたの?」
「はい! コイツがいきなり畳の下から出てきました!」
雷蔵の凄みのある声に反応して、八左ヱ門が慌てて答える。別に悪い事をした訳でもないのに、土下座して額を畳に擦りつけている姿が妙だ。
「……三郎?」
「すいませんでしたぁぁぁぁぁ!」
ちらりと雷蔵が三郎に目を向ける。それがまた恐ろしくて、隣に居た兵助以外はその圧力に押し潰されそうだった。
土下座する三郎を残して、八左ヱ門はそそくさと兵助の元へと逃げ帰ってきた。
「おほー、おっかねぇ」
「三郎もわかってるならやめときゃいいのにな」
二人が話している間も、三郎が顔を上げる事はない。よほど雷蔵が恐ろしいのだろう。
「でも何だかんだ言っても許しちゃうんだよなー、雷蔵は」
「優しいからな」
雷蔵が三郎の頭を撫でている。もうしちゃだめだよ、なんて大人が子供をあやすような口調で、三郎に話しかけている。
素直にごめんなさいと言えば許してくれる雷蔵の優しさを、兵助も八左ヱ門も、そして三郎も知っている。だからこそ、こうして四人で日々を過ごしているのだ。
「じゃあ、遊びに行こっか」
くるっと兵助達に向き直った雷蔵は、いつもの優しい笑顔だった。
「捜したよ、三郎」
長屋から少し離れた所で、三郎が膝を抱えて座っていた。いや、うずくまっていたと言う方が正しいかもしれない。
もうすっかり日は沈み、月の光が二人の影を弱々しく地面に映し出す。すっと通り抜ける風の音がやけにはっきりと聞こえた。
「兵助もハチも待ってるよ」
雷蔵が駆け寄って、三郎の肩をぽんと叩く。
三郎は一瞬びくりと身体を揺らし、声の主が雷蔵であると知るや否や、泣き出しそうな顔で彼に助けを求めた。
「らいぞ……っ」
「うん? どうしたの三郎」
掠れた声にしかし彼は別段驚く事もなく、三郎の前に腰を下ろした。
正直慣れているのだ。だから取り乱す事もない。そんな事をすれば、彼がますます深い暗闇に堕ちてしまう事くらい知っている。
泣きもしない。歪みもしない。
笑顔を崩す事もない。
「私……、おかしいのかな、変なのかな……っ」
「どうしてそう思うの?」
いくら雷蔵が見詰めても、視線を交わしてくれない。顔全体を手で覆ってしまっている。
彼の才能と同じ分だけ、不安定な気持ちが付き纏う。
「皆、化け物だって……」
雷蔵は悲しくなった。
自分が今日笑ったかわりに、苦しみ顔を歪めている誰かが居る。自分と同じ顔の彼が、今日は犠牲となっている。
どうして、どうして。
「三郎、この傷は?」
腕についた傷。深くはなさそうだが血が出ている。
三郎は、顔を背けた。
「……三郎?!」
雷蔵が三郎の心情を悟るのに、そう時間はかからなかった。
傷の深さ、三郎の様子、それらを考えればすぐに答えに辿り着いた。
――この傷は、三郎が自分で付けたものだった。
「どうしてこんな事したの?!」
「私、もういやだっ……」
また顔を覆った三郎が、堪えられないと言葉を紡ぐ。と、ここで雷蔵の迷い癖が不幸を呼んだ。
私は、何をすればいいの?
私は、三郎を支えてやれるの?
答えなんて、そんな一つの選択を迫るもの。
「ねえ三郎、私じゃだめ?」
「……何、を」
「私、だって」
三郎が手を外す。赤くなった目をしばたたかせて、唖然としている。
雷蔵は三郎の目を見る事しか出来なかった。不安そうに見詰め返す瞳を拒む事はない。ただどうしても、傷に目を向ける事が出来なかった。
それでも、彼を信じていい?
「一つしかない答えなんて、信じられないんだよ!」
「雷蔵……、」
三郎が口を挟む間も与えてくれない。頭が回らない中で出て来た答えを必死に声に出す。
「私と三郎は二人だから……、全部二つじゃなきゃ嫌だっ! 感情も悩みも何だって、一つだなんて考えられない! 二つじゃなきゃ、二つじゃなきゃ……」
この世で一つ、たった一つのものを信じるのなら。
「三郎じゃなきゃ信じない!」
譲れない想いだった。
同じ顔で、だけど嫌だと感じた事は一度もなかった。間違えられても、三郎とならいいかと許せた。
駄々をこねる子供のように。ただひたすらに目の前にあるものを。
傷付くのは、もうたくさんだ。
「雷蔵……、いいの? これからも私に顔を貸してくれるの?」
「ううん、貸すんじゃないよ」
雷蔵の言葉が理解出来ず、三郎が眉をひそめる。まさか断られるのではないかと、最悪の結末が頭を過ぎる。
すると雷蔵が、片手で三郎を自分の方に抱き寄せた。耳元で雷蔵の声が聞こえる。
「三郎は変装名人だから、私になれるよね。顔だけじゃなくて、性格も。でも私は、君にはなれないんだ。だから三郎に託したい。……ごめんね」
三郎は苦しくなって、そっと雷蔵から離れた。雷蔵の言葉がわからない訳じゃない。彼の言い分にも一理ある。変装をするなら性格も似ていなければ、二人で強くなる事など到底無理だと。
「やっぱり無理だよ……、自分の性格を変えるなんて」
雷蔵が出来ないなら私がしてやろうと、そういう思考が働く事もあった。けれどまだ彼は、未熟過ぎたのかもしれない。
三郎がそっと顔を上げた。
雷蔵と、同じ顔。
「嘘をつくのは、この顔だけで充分だから」
彼の意志が弱ければ、本当に雷蔵と同じ人間になつたかもしれない。けれども望まない。
三郎は、人間として生きる事を望まない。
最近、城の周りで死者の数が増大している。見張りに行った者が帰って来ない、なんて事はしょっちゅうだった。帰って来ても誰もが顔を真っ青にしていて、使えそうにない者ばかりだった。
城の壁に不気味に残る血痕は少なすぎるのだが、死体を見れば夥しい程の血が流れている。この矛盾は一体何なのか。その城の忍組頭ともあろう者が、そんな些細な疑問に頭を悩ませていた。
そしてこのままでは組が全滅しかねないと思った組頭は自らその事実を実証すべく、城の見張りを組の者と交代した。敵は何人もの忍者を殺している。相当なてだれだ。
カサ、と葉が揺れた。
来た。確実にそう思った。前から何の躊躇いもなく歩いてくる奴こそ、この一連の犯人だ。組頭は腰を低く落とし、武器を構えた。視線は前の敵だけに注がれる。
走る。即座に敵の懐に飛び込み、相手が反撃する隙を与えない。ほんの一瞬の心の動きが命取りになるのは自分も相手も同じ事。ならばそれを逆手に取ってやろうじゃないか。その時はまだ強気だった。
苦無を敵の胸に突き立てる。が、当然かわされた。そこからの反応が速かったのは敵の方で、頭上を易々と飛び越えて行くのが見えた。だが空中戦なら若干有利に戦闘を進められるかもしれない。組頭は空中戦が得意だった。
激しく苦無を打ち合う。耳に響く金属音だけが頭を満たしてゆく。そしてしばらくして、敵に一瞬の隙が出来た。この勝機を逃すものかと、案の定留めを指しに行った。
過ちを冒したとも知らずに。
「残念でした」
耳元で囁く声が聞こえた。しかし敵は目の前に居る。ずっと見ていたが、口を開く事なんてなかった。
ならばどうして、同じ顔が、今俺の後ろに……?
考えたのがいけなかった。空中での判断が遅れ、リズムを乱していく。
「うっ――!」
心臓を一突きしただけだった。組頭ともあろうものが、なんて呆気ない最期なのだろう。これが忍の世界というのなら、強さなんて関係がない。
「……悪いな」
策略と冷静さが問われる、残酷な世界。つまり組頭の前に現れた雷蔵はただの囮であり、本当の敵は三郎だったという事だ。
これが彼らにだけ使える、完璧な『双忍の術』である。
「これもこの世界の掟だから」
三郎は勢いよく苦無を引き抜いた。その際に溢れ出た鮮血が彼にも少しかかった。雷蔵はゆっくりと覆面を外し、組頭の顔に被せてやった。
もう何度目かもわからない、死に立ち会った。全て二人で。
「行こうか」
雷蔵と三郎。光と影。まさしく一心同体だ。
三郎の腕には今だに傷が残っている。あの時の痛みを感じる事はないが、それはきっともう痛みに慣れきっているからだろう。それでもこの傷を見る度、幼さ故の過ちを冒したとな思う。自分が付けた傷がこの日まで残るなんて、あの時は夢にも思わなかったのだから。
しかし三郎は言う。夢が叶ったよと。
「存在なんていらない。ただ、雷蔵の影になりたかった」
END
10.02.10
ものっそい捏造の双忍。三郎は少し病んでて、身体の至る所に傷があったりなんかだといいな、なんて。
ある意味小平太と同じ種の人間みたいな。強いけど、崩れたら生きるのが怖くなって、平気で自分を傷つけるみたいな。
信じられるのは雷蔵だけ。必要なのも雷蔵だけ。