夜明けと傷跡
怪我が治るまで、と言ってしまったことを、忘れてはくれないだろうか。良庵は布団の中でふと今更な事を思った。
夜中に突然目が覚めてしまってから、なかなか寝付けない。部屋に広がる消毒液の匂いはまだ良いとして、血や泥の匂いが妙に気になってしまうのだ。
万二郎は良庵の隣でぐっすり眠っている。こちらに背を向けて、寝息が良庵の耳に入るくらいに大きく呼吸をして。この家に来た頃は痛みからか時々呻き声を漏らしていたから、それが寝息に代わったと思えば、心地の良いものだ。良庵だって、嬉しい。けれどそれだけではないのは、彼が万二郎にいくらかの興味を持っていたからか。
まだ夜は明けない。障子の隙間から入ってくる風が、頬に当たって全身が震えるように寒い。三月と言えどまだ冬だ。
良庵は冷たくなった手に息を吐くと、そろそろと立ち上がった。
「どこへいく、先生」
突然下から声がして、良庵は驚きのあまり息を止めた。が、それが万二郎の声と知ってため息をついた。驚かすつもりはなかったのだろうが、万二郎の気配は微塵も感じられなかったのだ。
万二郎は良庵をしっかり見上げている。寝ぼけている様子もない。
「驚かさないで下さいよ。起きていたんですか」
「いいや、寝てたよ。まあでも、気配がしたら起きちまうのさ。夜襲なんかされちゃ堪らないからな」
ああ、そうだ、この人は武士だったのだ。この人の事だから、寝ている時でも気を張っているのだろう。良庵は思った。
武士が刀傷を負いここへ担ぎ込まれて来たのはこれが初めてではない。ただ中には命を落とした者もいて、病ではなく、人から受けた傷で命を落とす事の方が、虚しくて腹だたしく思えるのだ。
万二郎がどのようにして生きようが良庵には関係のない事だが、こうして縁あって知り合ったのだから、出来れば長生きして欲しいと思う。
「で、どこへいく」
「ああ、少し散歩にと思っていましたが……やめておきます」
「そうか」
暗闇で見えないだろうに良庵はにこりと微笑んで、何事もなかったようにまた布団に入った。もしかしたらと思っていたが、やはり眠れそうにない。
血や泥の匂いが気になる。刀から微かに感じられる血の匂い、何度も洗濯したにも関わらず繊維にこびりついて離れない泥の匂い。万二郎はもう慣れてしまったのだろうが、良庵はまだ慣れない。
しかし、気になる、というのはもう何の言い訳にもならない。
「付き合おうか」
「え?」
「先生が眠れるまで」
万二郎は仰向けになって言った。暗くて何も見えないが、その声は少し笑っているように感じられた。
良庵を気遣ってのことか、万二郎がただ眠れなくなっただけなのか。どちらにせよ、起こしてしまって悪かったなと良庵は思いつつも、それを口に出すのは野暮だ、と何も考えなかったふりをした。
二人、じっと天井を見ている。この暗闇では、天井のシミや木目などは見える筈もない。
「怪我は、どうですか」
「おかげさまで、もう大分良い」
「それは良かった。……いつ、ここを発たれますか」
「今日ここを出ようと思っている」
僅かながらも共に生活していた訳だから、良庵とて別れは惜しい。けれど先も言ったように、万次郎の回復は喜ばしい事だ。深い傷を追っていた者がすっかり元気になり、傷一つない状態で笑顔でこの場所を離れる事ほど、医者として嬉しい事はない。
ない、筈だったのだが。
(私は、この人を笑顔で見送れるだろうか)
良庵は急に不安になってきた。身体の内側がもやもやして、心の臓はきつく縛られているように痛む。
万二郎がここを発つ事が嫌なのか、それによって何故か考えさせられている事が不快なのか。どちらが本心だろう。
良庵は考える事をやめた。
万二郎の方を見ると、暗闇の中で目が合った気がした。お互い眠れないのは同じらしい。
「もう少し、付き合って頂けますか」
「ああ、構わないが、いつまでだ」
良庵が万二郎を笑顔で見送れる日など来ないと、初めからわかっていたのだ、万二郎は。それ程確かな自信を含んだ声だ。
悔しい。良庵が本心を話そうにもこれではあまりにも情けない。
良庵が言葉に詰まっていると、万二郎が暗闇の中でくくくと笑った。その笑い声さえ癇に触る。
けれど諦めたように良庵もつられて笑って、静かに目を閉じた。
「……私が、眠りにつくまで」
「ひだまりの樹」放送前に、万二郎と良庵ってどんな人だろう、って考えて書いてみたもの。折角なのでここに。