さばの缶詰 | ナノ
「バイト?」
奥のキッチンの方から、母さんが動く音がする。トントントンとリズミカルに包丁が野菜を切っている音。たぶん、父さんのビールのつまみを作っているんだろう。
「あんた、どっかで楽してバイトしたーいって言ってたでしょ?」
「…まあ」
「イワトビさんがね、バイトを募集してるって。あんた、鯖好きだからやってみれば?」
イワトビさんとは、鮮魚『イワトビ』の店主のおじさんのことだろう。
「だからもう鯖は嫌いだって」
「ふうん?あんなに朝晩食べていたのに?」
「それは…昔の話じゃん。ごちそうさま」
「あ、でも、もう言っちゃったから」
ごめんね、と語尾に星が付きそうな勢いで母さんは謝った。絶対、悪いとは思っていない。舌打ちを一つして、「いいよ、やる」とぶっきらぼうに言った。
「あら、ほんと?」
「うっさいな!やるって言ってるじゃん!」
「はいはい、分かったから。ああ、でもその髪じゃ駄目ね」
「……はぁ?黒染めにしなきゃダメなの!?めんどくさ」
いかにも嫌そうな顔をしたら、母さんはため息を吐いた。は、なにそれ。こっちがため息吐きたいよ。「あんたねぇ、中学生の時はあんなに真面目だったのにどうしてそんな、」
「明日、イワトビのおじさんに掛け合ってくるから」
「あっ、ちょっと!」
母さんの長たらしい説教は、高校を入学してからうんざりするくらい聞いてきた。だけど、効果は効いてない。わたしが遅れた反抗期に入っちゃったから。
「ムカつく…くそ」
おじさんならこんなわたしでも許してくれるはずだ。絶対、茶髪はだめって付け足したのは母さんだ。
鯖を買うため、おつかいに来たわたしを優しく接してくれたおじさん。明日、たのしみ……だ…。
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