海月は水に溺れて

母さんにまだ挨拶したい人がいると頼んで、レンタルカーで空港に行く途中に降ろしてもらった。

目指す場所は凛の住む家だ。会いたい人物が彼だと分からないように、少し離れた場所に降ろしてもらった。
時間は10分だ。ほんと、手短すぎるよなあ。心の中でぶつぶつと文句を言いながら、家主が出てくるのを待つ。

ガチャリと扉が開いた。時間はあと8分。出てきた凛は緊張した顔をしている。


「皐月…」

「ふは、なに?もしかしてこの前の気にしてるの?」

「っ!ば、別に…」

「その割りには顔が真っ赤だ」

「……るせえよ。つか何の用だよ」

「何もないよ。凛の顔が見たかったんだ。ねえ凛、あのスイミングクラブ……閉鎖しちゃうんだって」


聞かされていなかったのか、凛の目が驚きを表現する。
ああ、この赤みがかった髪を見るのも最後なんだなと思ったら、なんか無性に泣きたくなった。
でも僕は、泣いてはいけない。凛には…見せたくないし、悲しませたくないから。


「そん、な……」

「だからさ、今度…挨拶に行こうよ。山田先生が寂しがってたよ?『りんりんがいないとやだ〜』とか」

「あのひとは、よくお前の方を可愛がってたけどな。…ま、今度いこうな」

「うん。あとさ、また二人でランニングしようよ。次はぶっ倒れないから」

「絶対だぞ。なあ……なんかお前、隠してる?」


どきり、と心臓が跳ね上がって一瞬だけ呼吸を忘れた。凛がこちらを見透かすようにじいっと見てくる。
その視線から逸らさないように、すぐさま平静を装って、彼の肩をつついた。


「はは、僕はいつも隠し事してるよ」

「はあ?なんだよそれ、なんかムカつく」

「ま、そういうことだからさ…今日はちょっと難しいのでね」

「ん…分かった」


最後に何となく凛に触りたくて、初めて彼の頭を撫でた。怪訝そうな顔をされたけど、何も言わないから大丈夫だよね?
意外とふわふわしていて気持ちがいい。


「じゃあね、凛」

「…おう、またな皐月」


久しぶりに凛は少し笑ってくれた。それだけで胸がいっぱいになった。
僕もいつも通りに笑って、あの日通りに凛の家を立ち去った。時間はギリギリだから、僕は息を切らせながら走った。


俯きながら走って車に向かう。そうじゃなきゃ、この情けない今にも泣きそうな顔を晒してしまうから。

言えなかった想いが、どんどん外へ零れていく。

僕に優しさを与えてくれてありがとう。
僕と泳いでくれてありがとう。
自由で心地がよくて、本当は離れたくなかった。ずっと一緒に居て、同じ高校に進学したかった。でも、それは凛のためにならない気がするんだ。
僕がずっと居たら、優しい彼をこれ以上に傷つけてしまうから。
最後、何も教えられなくてごめんね。
バイバイ、凛。

……誰よりも大好きだったよ。


「……り、んっ……りん、りん゙…!」


道端で堪えきれずに僕はわんわん泣いた。
いやだ、離れたくない。でももう凛の笑顔を失いたくないから、別れなきゃいけない。
ぼたぼたと大粒の涙を灰色の歩道に落としながら歩いた。


「さよなら……凛」


もう会うことはないだろうから。

日本に帰ってから、僕は最後の中学生活をぼんやりと過ごした。ある本を読んでいたら、こんな記事があった。
【クラゲは脆弱な生き物だ。特に飼育することが難しい。
少し間違えてしまえば、クラゲはすぐに死んでしまう。
水に溺れて、酸素が足りなくて、死んでしまう。】


「…僕も、死んでしまったのかな」


ごぽり、と誰かの息継ぎが聞こえた。


過去編 完

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