海と月の引力にて

「皐月…もう聞いたと思うけど、俺、水泳やめるから」

「……どうして?」

「実力も才能もねえ俺が世界を目指すだなんて、最初から夢物語だったんだ」

「そんなことないよ!凛は…っ、」
「もういいって」


弱々しく笑う凛が痛々しい。こんな時、何という言葉をかければいいのだろうか。


「……僕は凛と泳げて楽しくて、やなこともすぐに忘れられたんだよ。凛は、違う…?」

「…………俺、も…お前と泳いでて楽しかった。でも、それじゃダメなんだよ…」

「凛……」

「ごめんな、こんなずるい答えで」


もうダメなんだなあと悲しくなってきた。アイと喧嘩した時と同じ感覚が僕を細波で襲う。
静まり返る空間で、ぽたりと滴が落ちる音が響いた。顔を上げたら凛が静かに涙を流していた。
泣きわめかずにはらはらと泣く彼が、きれいだと思った。


「り、ん……」


彼に引き寄せられるようにふらふらと近づいて、隣に座った。すると凛は、涙を絶えず流し続けたまま、僕に顔を近づけた。
あ、キスされる、と気付いたときには柔らかい感触が当たっていた。ほんの一瞬が何時間も経ったような気がした。


「っあ……!ごめん、皐月……。わりいけど、今日はもう帰ってくれ」

「……う、ん」


ふわふわした気分で、どう帰ったか記憶があやふやなまま家に着いた。あれ、母さんの黒いハイヒールだ。
嫌な予感がぐるぐると腹の中で渦巻いていた。

居間に入ると、母さんがソファに座っていた。アイコンタクトでこちらに来るよう呼び寄せる。
素直にそれに従って、近くに置いてある椅子に座った。


「私は日本に帰るけど、皐月はどうする?」


初めて与えられた選択肢に、僕は戸惑っていた。いつも気づいたら母さんが決めていた。
水泳も学校も留学も、すべての行き先は母さんにあった。でも今回は、僕の手にかかっているのだ。
ひりつくような喉の渇きを感じる。母さんがじっと僕を見つめる。ああ、いき苦しい。


「……ちょっと、考えさせて」

「そう。一応チケットは予約しておいたから。3日後までには決めておいて」

「…うん」


どうして急にオーストラリアから離れるなんて言うのだろう。母さんは少なくとも、僕より先に馴染んでいたというのに。

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