▼ 手を伸ばす
守るすべなんてなかった。
耳をふさぎ、目を閉じ、じっと時が過ぎるのをまった。
あの人が寝静まると、放り出されたベランダで月を見上げる。
ゆるやかに吹く夜風は、熱をもった腕や足を心地よく冷やす。
青や赤になった腕を月に伸ばすが、近くにある様に見える月なのに、この手に届かない。
当たり前なことなのに、あの頃の私はそんな事もわからずに絶望していた。
あの綺麗な月をに、私は一生触れる事が出来ないのだと。
◇
「…何を見ているの。」
声に振り向けば、暗闇のなかで上半身を起こし、こちらを見つめる慊人の姿。
「ごめん、起こした?月をね、見てた。」
「そんなのをみて何が楽しいの。」
不機嫌そうに体を起こした慊人に、再度「ごめん」と伝えて、私は慊人の髪を整える。
「…慊人に、拾ってもらう前の事を思い出していたんだよ。」
その言葉に、慊人は私の腕に自身の爪を食い込ませた。
「…っ」
「許さないよ。」
「慊人…。」
「許さないよ、おまえは僕の所有物なんだから。許さない。」
僕に飼われる前の生活を臨むなんて。
さらに強くなる力、だが私は慊人のその言葉を聞いてほほ笑む。
「そんなもの臨むわけがない。“僕”は、慊人の物だよ。一生、慊人だけの道具だ。」
「…ふん、寝る。」
布団にもぐった慊人に、「おやすみ。」と伝えて開けていた窓を閉める。
慊人が眠りにつくまでそばにいる。それが私の日課だ。
おやすみ慊人、私のご主人様。
眠りについた慊人の眉間には皺が寄っていている。
妙齢の女の子の顔なのに、苦痛を連想させるその表情はみていて私も苦しくなる。
慊人が眠った事を確認して、私は部屋をでた。
『僕に飼われる前の生活を臨むなんて』
先程の言葉を思い出し、爪痕に指を滑らせる。
臨むわけがない。慊人は私をあの地獄から救ってくれたのに。
たとえ周りがなんて言おうとも、私にとって慊人は救世主。
渡り廊下から空を見上げれば、月はもう雲に隠れていた。
どうせ届かないのならば、いっそ、無くなってしまえばいいのに。
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