小説 | ナノ
あれから数日、俺は度々あの女の涙を思い出していた。末の弟に聞いたところ、あいつはなまえというらしい。そういえば同じクラスにあんな顔の女いたな。と泣き止んだ顔を見てぼんやりと思い出した。
泣け、泣け、と教室の一番後ろの席からあいつの背中を睨んでも、あいつが泣くことは無かった。ただ時々振り向いて、俺の視線にふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべた。
そんなある日、僕はついにやってしまった。
学校の、誰もいない廊下がずぶ濡れになっていた。それはトイレから始まって、屋上まで続いていた。
「何やってんの」
屋上にはあいつがいた。頭の天辺から足の爪先まで濡らして、体育座りしていた。
「水、水が、降ってきたの、たくさん、トイレにいたの、わたし、バケツが落ちてきたの、さむい……ねえ……どうして……」
震える女の体は細くて、このまま死んでしまうんじゃないかと少し心配になった。死んでしまってはもう泣けない。俺は着ていた学ランを脱いで、あいつの肩にかけた。
「あ、濡れちゃう、濡れちゃうよ……」
「別にいい」
「けど」
「いい」
語気を強めて言うと、それきり女は押し黙った。隣に座って顔を覗き込むと、案の定泣いていた。
僕は少しだけ心が満たされるのを感じた。そしてこいつに涙を流させているのは僕だと思うと興奮した。ああ、トイレにバケツを投げ込んでよかった。