真っ暗な森のそばを、私はただひたすらに走っていた。もうどのくらい走っただろうか。脇腹が、喉が、焼けるように痛い。私は溢れそうになる涙を堪えるため、目を固く閉じた。
――その瞬間。足がもつれ、視界がぐらりと揺れる。
(倒れる!)
私はまた目を固く閉じた。一瞬後、体に柔らかい衝撃が来た。何者かに抱き締められているかのような感覚。そっと目を開けると、黒い浴衣が目に入った。それをたどり上を向くと――鬼が、いた。
「いやぁああ!」
急いで踵を返し来た道を戻ろうとするが、腕を強い力で捕まれ阻止された。
「待ちなさい」
「ぁ、あ……すみ、ま、せん」
落ち着け。鬼がいて当然の場所なんだ。それに礼も言わずに立ち去るなど、失礼だ。
「……ありがとうございました」
そう言って頭を下げると、彼は「いえ」と無表情のまま言った。そこで会話は終了したはずなのだが、一向に腕を離してくれない。
「あの、腕……」
「ああ、すみません」
パッと腕を離してくれたので、立ち去ろうともう一度一礼すると、彼が「ところで」と言った。
「お送りしましょう。こちらです」
言って、彼は森へ入っていった。このまま逃げてしまおうかと思ったが、彼は悪い人では無い気がして、私は彼のあとを追った。
「あなた、お名前は?」
突如話しかけられ、私の肩が大きく跳ねた。彼は、気配でわかったのか、はたまた後ろに目があるのか「とって食いやしませんよ」と、茶化すような口調で言った。
「は、はい。私は、名前と言います」
「そうですか。では、名前様」
彼が振り返った。彼の持つ鬼灯の灯火に照らされた彼の顔は、とても美しく、一瞬めまいがした。
「またお会いできることを、楽しみにしています」
瞬きをした刹那、私は元の場所にいた。雨降る日の午前零時、地獄への扉が開くといわれる森の寂れた鳥居の前。私はなんとか無事、戻ってこられたようだ。
120316