最初は、妹が増えたみたいだと思って。 ──本当に、ただそれだけだったのに。
「まーこちゃんっ」
「…………名前?」
「なかなか起きてくれないから焦っちゃった! はやく行こっ!」
真琴が重いまぶたを開けると、名前がしゃがんだ格好で真琴を見上げていた。
列車は停留しているようで、しばらく動く気配はない。 そう長い時間寝ていたわけではないが、寝起きの頭に夕陽の色は優しすぎると感じた。
名前は未だぼんやりとしている真琴の手を引っ張り、遙と渚の元へ。 左手には凛から借りたジャージを入れた袋を持っており、真琴はゆらゆらと揺れるそれに目が向かった。
(凛の、ジャージ……)
昔のままの気持ちだったなら、こんな些細なことで複雑な感情を抱かずに済んだのだろうか。
妹だと思っていた。 ずっと、そう思っていたかった。
真琴は名前の手をそっと握り返し、いつものように、優しく微笑むのだ。
・・・
夜もとっぷりと更けた頃。 鮫柄水泳部が引き上げたのを見計らって、彼らはプールへ忍び込んだ。
プールいっぱいに張られた水を見るやいなや、遙は制服を脱ぎ散らかし、ザブンと水飛沫を飛ばす。
「ああ、もう……」
「わあ……! やっぱりハルちゃん、イルカみたい……」
遙の動向を見守る二人の側で、名前は例によって凛のことを考えながら、遙の制服を拾い上げて丁寧に畳んでいる。
(連絡しておいたほうが、よかったかな……)
名前はスカートのポケットにある携帯に触れた。 寮住まいであるなら、いまの時間でも会える可能性は十分にあるのだ。 遙と凛の二人を気にしている名前は、いきなりやってきたことを今更ながら後悔した。
「名前ちゃーん! 名前ちゃんも泳がなーい?」
「えっ? 私はいい……って、いやあぁぁ! ナギちゃんなんで服脱いで……? あ、そ、そっか! 泳ぐんだもんね!」
「いやいやそこで納得しちゃダメだから!」
慌てる真琴はブレザーを脱ぎ、それで名前の視界を塞ぐ。 渚が勢いよくプールへ飛び込めば、真琴は再び大きくため息を吐いた。苦労の絶えない男である。
「マコちゃん! 来て来て!」
「……名前、絶対ブレザー取っちゃダメだからね」
「う、うん。でもマコちゃん、行かない方がいい気が……」
名前が苦笑いで答える。 真琴を呼ぶ渚の笑顔はいたって無邪気だ。無邪気だからこそ、何か悪戯を企んでいるような。
そっと渚を見ると、下半身はうまく水が隠していたので名前は安堵した。 名前と目が合うと、悪戯っ子のように笑う。
そして渚は、まんまと真琴をプールへと引きずり込んだ。
「きゃあ! ま、まこちゃん……!」
「あははは! 象が落ちたみたい!」
「ああ、もう……! なぎさぁーっ!」
「あははっ! ねえ、名前ちゃんもおいでよー!」
名前が渚と真琴の制服を遙のものと同じように畳んでやっていると、渚からお声がかかった。……かかってしまった。 もちろん濡れ鼠で帰りたくない名前は、お断りする。
「ええっと……私は、凛を探しに行こうかな……?」
「まあまあそう遠慮しないで!」
「遠慮してな……っ! ナギちゃんハダカ!!」
「な、な、なにしてんだよ渚!!」
何を思ったのか、渚はプールから出て名前の方へと歩を進める。言うまでもなく全裸だ。
名前は真琴のブレザーを被って渚を視界に入れないようにしたが、結局前が見えていないわけなので、逃げることはままならない。
幼馴染みだからこそ、この所業が許されているのである。ギリギリのところで。
「えっち! バカ! ばかばか! 変態!」
「ふっふー……なんとでも言うがいいよ! 名前ちゃんは僕に捕まって、悪戯されちゃう運命なのだぁー!」
「渚それシャレになってないから!」
「うわーん!」
ズルズルと引き摺られ、名前は先ほどの真琴同様に水へ落とされた。
「ああ……うわぁ、もう渚、渚お前……」
「えー? でも気持ちいいでしょ?名前ちゃん!」
「……うん! すっごく気持ちいいね!」
目を輝かせている名前は、やはり遙の妹だった。真琴はもう力なく微笑むことしか出来ない。
──まあ、こうなったなら仕方がないか。 真琴は開き直り、水を掛け合ってすっかり楽しんでいる二人に混ざる。
「(って、名前下着透けてる……!)」
「マコちゃん、しーっ!」
「お前……まさかわざと……!」
「いやあ、眼福眼福!」
「え、エロ親父かっ!!」
渚を批判しつつ、しっかりと釘付けになる真琴。
肌に張り付く白いワイシャツに、うっすらとその存在を主張している名前らしく可愛らしい下着、水に揺らめくスカート、覗く太もも。そして見られていることに気付いていない、鈍感な名前……。 健全な青少年にはいささか刺激が強いだろう。
「あれ? どうかしたの、二人とも……」
「えっ!? いや別にやましいことなんて……な、なあ?」
「うんうん、名前ちゃんのブラジャーとか全然見てないよ!」
「な、なぎさぁーっ!!」
「ぶら…………。や、やだ、嘘っ……!」
慌ててプールから上がる名前は、肩を抱いて恨みがましく二人を睨む。のだが、
「お前ら……どういうつもりだ!」
現れた凛によって、真琴と渚をなじる言葉は出てこなかった。
──張り詰めた空気が流れる。
名前は凛の姿に喜ぶよりも、その険相と鋭い声色にいすくんだ。 水を滴らせている名前に凛が一瞥だけくれると、ハッとしたような、傷付いたような複雑な表情を浮かべ、すぐに顔を逸らす。
「僕たち、凛ちゃんに会いに……」
「帰れ」
「あ、あのね、凛」
「名前お前もだ。……なんで来た」
「ご、ごめん、なさい……」
呆れを含んだ冷たい声に名前は息苦しくなって、言い訳のひとつも言えずに下を向く。 凛は名前を見ようとしない。
昨日とは違う、名前の知らない凛だった。 渚や真琴が言っていたことを思い出し、やけに冷静に「確かにそうなのかもしれない」と考える。
嫌な心臓の高鳴りを感じていると、狙わずとも名前をかばう形で、遙が口開いた。
「……フリー」
「はあ?」
「言っただろ、俺はフリーしか泳がないって」
名前と似た清廉さを感じさせる瞳が、まっすぐに凛を見る。
「あの時の景色、もう一度見せてくれ。なにが見えたか忘れちまったから」
奇しくも、二人の勝負がここに再び成ることとなったのだ。
|