松岡江は七瀬宅を訪ねていた。
昨日、兄の凛にスイミングクラブが取り壊される旨をメールで伝えたのだが、反応は返ってこなかった。 なので、何かしら事情を知っているであろう遙に話を聞いてみよう、と思い至ったのである。
七瀬家の場所は、まだ遙と凛の仲が良好であった頃、兄につれられて遊びに来たことがあったので知っていた。
「…………」
何度かチャイムを鳴らすが、誰も出てこない。 早めに学校を出ていく遙を見かけたので帰っていると思ったのだが、出払っているのだろうか。
小さく声を溢し、踵を返す。
足元を見ながら歩き出すと、江のものではない足が六本ほど。 視線をあげると、校内でも何度か見掛けていた名前、真琴、渚の三人の姿があった。
「……あっ」
「えと、あの、何かご用ですか……?」
おずおずと、真琴の陰に隠れながら江を見ているのは他でもない名前だ。 その姿に初めて会った時を思い出す。
──あの時は確か、お互い兄に隠れながら自己紹介を済ませたのだっけ。
兄達が水泳に勤しんでいる間、彼女たちは親交を深めたのだ。 たまにしか会えなかったが、それが“次”を待ち遠しくさせていた。
遠目からでは確証が持てなかった江だが、やはりこうして直接会ってみれば彼女は前と変わらず、江の知っている名前だった。
「あっ! 君……凛の妹の、松岡江ちゃん!」
「ご、江ちゃん? わあ! 全然わからなかった! 久し振り! どうして私のお家に?」
「江ちゃんって、時々スイミングクラブに来てたあの江ちゃん!? 久し振りー!」
「ええっと……。とりあえず江じゃなくて、コウね!」
・・・
四人は七瀬宅の玄関先からそう遠くない、見晴らしの良い丘の上に場所を移した。 名前は折角なので家に上がって行けばいいと言ったのだが、江は断った。今日はあまり長居も出来ないらしい。
名前は真琴の隣に立ち、話す江と渚の二人を嬉しそうに見ている。
「へー! 江ちゃんも岩鳶高校に入ってたんだぁ」
「だから……江って呼ばないで! コウって呼ばれてるんだから!」
「ええっ、なんで? 戦国武将、浅井長政の三女と同じ名前の、江でしょ?」
「そうだけど……。 普通に読めばコウなんだから、そこは素直にコウって呼ぼうよ! それが優しさってもんじゃないの?」
良い名前だと思っているので江と呼びたい渚と、男の子っぽい響きを嫌がってコウと呼んでほしい江がにらみ合う。
少し面白がっている風の渚に、名前が口を挟んだ。
「ま、まあまあナギちゃん! 江ちゃんも嫌がって……あっ」
「コ、ウ! ……もうっ、名前ちゃんまで……」
「あう……ついうっかり……!」
頬を膨らませて拗ねる江にたじたじの名前を見て、今度は真琴が助け船を出す。
「ええっと、そんなことより……」
「そんなこと?!」
「わぁっ!? ご、ごめん……。 でも、何しにハルの家に?」
「うっ……! それは……」
真琴から気まずそうに目を反らし、少し考えるそぶりを見せた江。 チラリと控えめに名前を見てから、おずおずと口を開いた。
「……お兄ちゃんのこととか、聞きに?」
「たしか……鮫柄に入ったって聞いたけど」
「はい。 先月帰国して、この春から鮫柄学園に……。あそこ全寮制だから家には帰ってきてないですけど……」
「凛ちゃん、本当に鮫柄に入ったんだ! 鮫柄ってあの水泳強豪校だよね?」
「そうそう、その水泳強豪校の鮫柄ね」
凛は帰国してから家に帰っていない、と江が言ってから、名前は身を縮込ませていた。 凛が帰国してきたその日に、名前は凛に会っている。
大きな荷物が近くに置かれていたので家に顔を出す前に名前と会ってくれていたのはわかっていたのだが、その後は普通に、家に帰っているものだと思っていた。
事実を知り、素直に嬉しいと感じた。 きっと凛は誰に会うよりも先に名前と会ってくれたのだ。
凛の肉親である江の手前嬉しさに緩んでしまう頬を隠すように手を当てていると、江と、ついでに真琴の視線が突き刺さる。
「……ところで名前ちゃん」
「は、はい……っ?」
「…………お兄ちゃんと何か……あったよね」
江の口調は断定的だった。
「あったんだよね? 名前?」
「毎日凛ちゃんと会ってたんだよね? 名前ちゃんっ」
「ち、ちが……っ! 毎日会っては……!」
「ふぅーん? でもお兄ちゃんと会ってはいたんだ?」
「ご……コウちゃん……!」
“四面楚歌”の四文字が名前の頭を巡る。
渚も江も、真琴すらもからかいを含めているのだが、後ろめたさを感じている名前には少々刺激が強かったようだ。
名前はいじけたように肩を落とす。
「あ……会ってました……みんなに内緒で……」
「ああ、ごめんね! 別にお兄ちゃんと会ってたのを責める気はなくてね、むしろどんどん会ってあげて! って感じなんだけど……」
「へ?」
「う、ううん! 何でもない! それで、お兄ちゃん元気そうだった?」
「うん? 元気だったよ」
「そっか、それならよかった……」
江は安堵の息を吐いた。 ろくに連絡のとれない兄が元気だと言うことと、うっかり出た言葉をうまく流せたことに対してである。
帰国の日に凛へメールを送ったところ、珍しく返事が返って来たのだ。 それも二通も。
送られてきた内の一通目には、簡素に帰国してきた事を知らせる内容と、途中で不自然に途切れていた名前の話題が。 そして二通目には、相当焦ったのか「さつきのメールけせ」と来た。
それで凛と名前の殆どを悟った江は、報われているようでいまいち報われていないような、そんなじれったい兄を影ながら応援しようと思ったのだ。
(小さいときは気付かなかったけど……そういえば名前ちゃんのこと、よく気にしてたっけ)
名前たちと別れて一人帰路につく江は、沈む夕日に兄の恋の成就を願った。 ロマンチストなところは兄妹揃って同じである。
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