短編 | ナノ

沢田家長女 57


 ◇

 ーーほら、間に合わなかった。
 氷の棺で微睡みに沈む少女の幻影が雲雀を笑う。
 その周囲では滅多打ちにされた屍が燃やされることなく転がっている。倒れ伏す名前を見た雲雀により殴殺されたのだ。
 動くものが雲雀ただ一人になった頃、雲雀は両手からトンファーを落とすと名前のすぐ横で膝をついた。
 微かに震える手で触れた肌は、氷に触れたように冷たい。濡れた地面で風に当たったからだと考えた雲雀は、羽織っていた学ランで名前の身を包む。
 やはり間に合わなかったのではないか。雲雀恭弥(おまえ)に沢田名前(わたし)は救えないのだと、瞼に焼きついた彼女の幻想の囁きが、諦めない心を蝕んでいく。
「まだ、まだだ……沢田、」
 ひどく冷え切った身体はあまりにも軽い。抱き上げた雲雀は、己の生命力を分け与えようと紫に染まる口を割り開いた。
「ーーきみは、しなせない」

 ×××

 全て燃え尽きた後のような灰色の地面に、塗りつぶしたような黒い空が重く垂れる世界で、名前はうずくまっていた。
 心臓も記憶も全てを薪に変えて、この世の全てを燃やし尽くす夢。数多の命を奪いながら、ただ一人美しく燃え盛っていた彼女(わたし)の記憶(ゆめ)。
 いつか直感した終わりの景色が目の前に迫る。
 今が夢なのか現実なのかすら曖昧だ。それでも、自分がした事の後悔と責任は重く名前を締め付ける。これは夢だと逃避する思考を理性が逃さない。
 思えば、薄氷の上を歩くような日々だった。
 積もった雪の厚みに、目指した陸の暖かさに、そこが氷の上だということを忘れていたのだ。
 冷たい夜の冷気が身体の芯から凍えさせる。寒くて寒くて仕方がない。何か暖を取れるものを、と探した手が、仄かに暖かい濡れたものに触れた。
 ぴちゃ、と跳ねる水音がする。
 辛苦と憎悪に満たされた胸の中。貫かれ、ぽっかりと空いた穴からこぼれ落ちたソレ。
 ……あぁ、
 星ひとつない夜空を見上げながら、名前の意識は深く沈んでいく。
 伸ばした手はただ空を掻いただけでどこへも届かない。
 その手を引き上げてくれる誰かもいない。取って共に沈んでくれる誰かもいない。
 ただ一人、深く眠るように落ちていく。
 ……燃えて、なくなりたい。
 願った通り、凍えた意識に炎が灯る。柔らかな橙の炎が滴るソレに燃え移ろうとした瞬間。
 遥か頭上から、一条の星が落ちてきた。
「ぁ……」

 ×××

 顔にぽたぽたと落ちる雫に名前が目を開けると、すぐ近くに見慣れた白く美しい顔があった。
 顔を覗き込むように名前を見下ろす雲雀は、鈍色の目を瞠るとはく、と息を吐いた。まるで死人が生き返ったところを見たような、驚愕と安堵が混じり合う。
「さわ、だ」
 名前は辛うじて動く腕を持ち上げると、鈍色から伝い落ちるそれを拭うように頬へと指先を滑らせる。こんな貴重なものが見られるのなら、再び目を開けて良かったと心底思った。
「……雨かと、思った」
 青ざめたままの顔で名前が微笑う。
 息は細く、声も葉擦れの音よりもささやかだ。けれど、その音の甘やかさは変わらない。つい仕方ないなと許してしまいたくなるような、意地悪をしたくなるような、雲雀の胸を擽る声。
「ごめんね、ひばりくん」
 辛そうな吐息は、腕を上げるだけでも精一杯なのだろう。名前の手が雲雀の頬から滑り落ちると、雲雀は咄嗟に掴んだ手を握りしめた。
 重ねた肌から伝わる熱が移ったのか、冷たい肌に温もりが戻ってくる。
 誰も知らずとも、雲雀は知っている。ともすれば、本人すら気付いていないかもしれない。名前をよく見ていた雲雀だからこそ気付いた違和感ーー死ぬことが怖いくせに、殺されることを受け入れた矛盾。
「やだ。ゆるさない」
 雲雀が肩口に顔を埋めた。夜に溶けるような黒髪がさらさらと名前の頬を擽る。抱きしめた腕の力は強さを増し、返す声に含まれた息が僅かに震えているのを、名前は首筋に感じた。
「ゆるさないから……僕がゆるすまで、傍にいて」
「ぁ……」
 締め殺されると思うほどの力が一瞬込められる。
 緩慢な動作で首を持ち上げた雲雀が口を大きく開き、名前の唇に噛み付いた。唇にぬるりとした生温かく濡れたものがあたる。
 甘い口付けとは程遠い。まるで蛇が捕食するように口を塞がれている。
 ぶわりと広がる鉄の味は、食い込んだ歯が皮膚を破り血が滲み出したのだろう。
 その瞬間、どくりと心臓が跳ね上がった。
 名前の超直感が急き立てるように警鐘を鳴らす。脳内に頭痛を伴うほど鐘の音が鳴り響く。
「っ! んー!! んんーっ!」
 心臓が、燃えた。
 自らを薪とした記憶とも異なる、まるでガソリンを流し込まれて火を付けられたような感覚。凍えた身体は全身火だるまになったように熱を持った。
 ……あついあついあつい!
 これはダメだ。逃げなければ。焦れば焦るほど心臓は燃え上がり、身体は発情したように焼けていく。
「んー!! ふっ、んんっ……んー!!!」
 暴れる体を押さえつけた雲雀は唇をいっそう強く押し付ける。
「っ……ん、ぐ……」
 次第に遠退く意識の中、雲雀越しに見上げた空は、重く垂れ込むような昏い鈍色が広がっていた。


20231214

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