短編 | ナノ

沢田家長女 45


 ◇

「久しぶりね、お兄ちゃん」
 ザンザス。ボス。御子息様。彼を表す名は限られているが、そのあまりにも懐かしい呼称にザンザスは思わず振り向いていた。
 木漏れ日のスポットライトを浴びて星屑を散らしたように輝く女が一人、ザンザスを見て穏やかに微笑んでいる。
 彼の記憶に残るものよりも随分と成長していたからだろう、微笑を湛えた顔はいっそう美しさを増していた。
「……思い出したのか」
 ザンザスの問いに対し、深まる笑みが答えだった。「そうか」と一言だけ返す声は、彼自身が思っていたよりもずっと柔らかく、労うような音だった。
 封印が解かれた瞬間の苦しみと絶望を、同じく氷の揺籠に封じられていた経験からザンザスはよく理解できた。肉体(そとみ)か精神(なかみ)かの違いだけで、受ける苦痛そのものは変わらないのだ。
 ザンザスは、幼少期の名前と綱吉に会ったことがあった。それを知っているのは今や九代目だけで、二人の父親である家光すら極秘の面会は知らない。
 ザンザスが父の後を追いこっそりと極東の島国まで着いてきたことは、永久に秘されているのだ。
「せっかくお爺様が命がけでしてくれた封印、意味無くなっちゃった」
「ハッ! おいぼれめ、ざまーねぇな!」
 知る人が限られているその秘密への告白に、ザンザスは無表情から一転、愉快そうに高笑いをした。
 少女の才能にいち早く気がついたのはザンザスだ。徒労に終わるだろうと告げた息子の忠告を無視したのは養父、九代目である。
 小さな胸のうち、肉体の奥で燃え盛る魂を垣間見たからこそ、言ったのだ。封印が解かれた瞬間はさぞや見ものだったであろう。
「ありがとう。助けてくれて」
「今回の件なら、礼を言われる筋合いはねぇ。ボンゴレこそ最強だと示したまでだ」
 名前は微笑みを浮かべたままゆるりと頭を振った。
 「あの時、私と弟のこと追いかけてくれたじゃない。あなたはあのまま見殺しにすることも選べたのに」
「勘違いするな。てめぇら姉弟はオレの獲物と決めていた」
「ふふ、お兄ちゃんらしいなぁ」
 少女は花のように微笑む。かつてと同じように、けれどあの頃よりも明るく、美しく。
 血に濡れた男にはない透明な輝きに、ザンザスは眩しそうに目を細めた。
 ザンザスがかつて極東の島国まで赴いたのは、なにも父を追ってのことではない。当時、彼の有力な婚約者候補として挙げられていた家光の娘を一目見ようと思ってのことだ。
 歳の差は九つ。初代の血統を取り込むための、あからさまに政略的な婚姻だった。
 ボンゴレの血統としては不適格ではあれど、ザンザスにも炎を由来とした見透かす力は僅かに流れている。それが行け、と命ずるままに辿り着いた先で、力を暴走させる彼女を見つけたのだ。
 そこから先は、少女が覚えている通り。
「……早く行け。いけすかねぇ雲の野郎が待ってるぞ」
「うん。さよなら、お兄ちゃん」
 朝日の髪を揺らす少女の背を見送る。
 本当に礼を一言告げるためだけに来たようだった。この未来の名前が言う機会は一生ないだろうから、おそらくはその代わりに。
 ザンザスはこの未来における少女が辿った顛末を知らない。
 恋にも至らなかった鮮烈な炎の記憶。興味を抱いたのはその一度きり。長い凍結の後に見かけた少女はもう、ファミリーではなくなっていたから。
 捨てられたものとしての憐憫は抱いたが、所詮はそこ止まりで直ぐに記憶から消えてしまった。
 だから、この世界のザンザスが彼女と関わることは金輪際ない。どのような人生を歩むのか、興味を抱くこともない。
 それでも、恐怖に怯えるばかりの無力な少女がもういないことには、かすかな安堵を覚えた。


20231003

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