沢田家長女 37
◇
甘やかな声。溶けるような瞳。温く柔らかな肉体。湿り気を帯びた空気。
そして、胸に微かに残る苦い後悔。
その全てが、求めるあまりに脳が作り上げた都合の良い妄想かと疑うこともあった。
「ああ、君。丁度いい。白く丸い装置はこの先だったかな?」
それでも、春の夜の夢のような出来事を、雲雀は今も鮮明に覚えている。
×××
少しずつ劣勢に立たされてもなお薄く微笑む雲雀の不気味さに、幻騎士は耐えきれずに声を上げていた。
「貴様、何がおかしい!」
血を流しながらも雲雀の顔から笑みは崩れない。
実力は互角。所有するリングだけが雲雀を劣勢に落としている、追いつ追われつの鍔迫り合い(シーソーゲーム)だった。
少しでも意識が逸れ、余所見をすれば瞬く間に斬り殺されるだろう緊張感は、彼が滅多に感じることのないほどの高揚を誘う。
けれど、そんな時ですら、雲雀の思考の片隅にはいつだって亜麻色の影がちらつくのだ。
「……、」
目が覚めたら夢のように消えていた温もりに、落胆は隠せなかった。
結局は選ばれなかったのだ。けれど、それで良かったとも確かに思った。あの時は彼女の身の安全を思うなら遠ざけるか、日も届かない地下深くに閉じ込めて隠し通すしかなかったのだ。
半端に存在を知られてしまった、力を持たない彼女が利用されないようにするには。
そう無理矢理納得させた心が再び騒めいたのは、予定外に現れた過去の沢田名前を見つけた時だ。
記憶にない力。記憶にない出来事。雲雀が進めなかった道が彼らには拓かれる。
「ああ、羨ましいな」
その身に美しい炎を灯せる。
ーーもう炎に焼かれることもない。
自らの足で空を翔けることができる。
ーー逃げるように身を潜める必要がない。
あの子と同じ姿で。
ーーあの子にはない力で。
「本当に、羨ましいよ」
この男と万全の状態で戦える過去の自分が。
沢田名前と隣並び続けられる過去の自分が。
今も記憶に残り続ける亜麻色の、花のような笑顔を思い浮かべて、未来の雲雀は白い煙の中へと消えていった。
20230929
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