沢田家長女 19
◆
とてとてと駆け寄ってきた子供にママと呼ばれた名前は、困惑を浮かべたまま膝を突いた。
「ママと逸れちゃったの?」
「ママは、ママじゃないの……?」
鈍色の瞳が潤む。そうだと言えば泣き出しそうな様子に名前が言い淀んでいると、それを見た琥珀色が悩むようにふるりと首を振った。
「あのね、ママが、男の人来るまで隠れてって。お父さんなら、僕が見たらきっとわかるからって……」
「うんうん、頑張って隠れてたら、ママがいなくなっちゃったの?」
そう言いながら涙が滲む子供達の頭を、名前はついランボ達にするように撫でていた。ふわふわとした触り心地は幼い頃の綱吉にも似ているし、もう片方のさらさらとしたやや硬い撫で心地は、沢田家には無いものだ。
途端にぱぁ、と笑顔を浮かべた子供達に、名前も思わず笑みを浮かべた。
「それで、二人はどうして……」
ママ≠ニやらは何故こんなにも不吉な予感のする場所に子供二人を隠そうとしたのかを問おうとして、名前は違和感に言葉を止めた。言い知れない悪寒が肌に纏わりついてきたからだ。
同時に、琥珀色の目をした子供からも笑顔が消える。大きく見開いた琥珀の透徹とした目は、まるで未来を見透しているようにも見えた。
「二人とも、危ないから下がってて」
「見つけたぜェ、野うさぎちゃんよぉ」
名前が立ち上がり後ろに隠すと共に、にやにやといやらしい笑みを浮かべた屈強な男が二頭の犬を連れて空から現れた。
足から、というよりブーツから綱吉やザンザスのような炎が噴出しているのを見て、マフィアだと名前は唇を噛んだ。
「……んぁ? なんだか様子が違うが、まぁ死ねば同じか」
赤い夕焼けに、夜の薄墨が混ざり始めた。
◆
「邪魔だガキ。てめぇらは後で始末してやるよ」
「危ない!」
咄嗟に地を蹴った名前が二人を抱えて転ぶように回避する。
「ママぁ!」
「っ、平気よ」
「ほぅら逃げ回れ。さっさと捕まっちゃつまらねぇぞ! うさぎ狩りは逃げ回るほど盛り上がるってもんだ」
赤い炎を纏った犬が二頭、名前の周囲をぐるぐると走り回る。
「まぁ、逃げられるなら、だが」
「ママ!」
「二人とも、ママの言うことちゃんと聞ける?」
涙を浮かべながらこくこくと頷いた子供達に、名前は記憶の中の母を浮かべながら安心させるように微笑んだ。
「お姉さん、やっぱりママだ」「うん、ママだね」
子供達の眦から涙が消える。確信したように笑い合う二人に、名前は否定しなかった。
「なら、ママがいいよって言うまで目を閉じててね」
二人手を繋いで目を閉じるのを確認した名前は、ひたりと男を見据えた。炎を纏う猟犬はテレビで見るような大きく立派な種類である。噛まれたらひとたまりもないだろう。子供なんて、それこそ死んでしまう。
ぞくりと背筋を振るわせた恐怖に、名前は祈るように手を組んだ。
「はっ、神頼みか?」
嘲るような男の声も気にならなかった。
少なくとも、この子供二人が自分をママ≠ニ呼び無条件の親愛を向けているうちは、本当の母親に代わり守ろうと決めたのだ。もしかしたら、この男が奪ったかも知れない母親に代わって。だって、こんなにも可愛い子供なのだから、本当の母親であればきっと心配で仕方がないだろう。
……きっと、死んでも死にきれないわ。
覚悟と共に、ふわりと陽炎が立ち上る。炎となる前のそれは薄く広がると、名前と子供達を守るように包んだ。
「いいぜ、神に祈りながらあの世に行きな! やれ、嵐犬!」
「ーーE'la nostro dolore tra le fiamme.(炎に刻まれた 我らの嘆き)」
もはや、男の言葉は聞こえていない。名前の口からは囁くような声がこぼれた。
何を言ったのか、何の意味が込められていたのか名前は自分でも分からなかった。そもそも、言葉を発した認識すらないのだ。
ただ、思い出せ、と強く強く祈っていた。
恐怖を、辛苦を、悲嘆を。
記憶が染まる。腹の底から絶えず湧き出る憎悪は、内側から凍えるような寒気を伴い名前の身体に夜のベールを纏わせていく。
その炎に触れた嵐犬は、炎の供給によって凶悪に膨張した牙が名前に届くよりも早く、黒く燃え上がる。
匣に戻る間もなく炭化し灰となった己の兵器に、男は動揺したように叫んだ。
「おいおいおい、聞いてねぇぞ!」
「来ないで!!」
鞭を床に打ちつけた男に蜜色の目が恐怖に染まると、男の周囲で渦を巻いた黒い炎は高波のような火柱となり男へと襲いかかった。
「あああああ!!」
「っはぁ、はぁ……っ、」
このまま弾けるのではないかと思うほどに心臓が早鐘を打つ。
感情の処理が追いつかない。目の前が真っ暗になるほどの絶望と虚無が交互に押し寄せる。今にも意識を手放したくなるほどの狂乱だ。今、名前が意識を保てているのは耳を裂くような男の断末魔のおかげだった。己が齎した禍いの結果だけが名前の意識を現実に押し留める。
名前が意識を手放しても、現実から目を背けても、コントロールを失った炎は昨夜のようにまた四方へと燃え広がるだろう。
……それだけは。
守ると決めた、後ろで震えている子供を想う。名前(ママ)に言われた通り、懸命に目を閉じて恐怖に耐えている。
「クソアマがっ……ゆるさねぇ、ゆるさっ」
炎に巻かれた男は息も絶え絶えに恨みを叫ぶ。名前が朦朧とする意識の中、さらに炎の出力を高めようとした途端、太い木の枝を無理矢理折るような音と共に男の怨嗟の声が止まった。
「……? な、に……」
次いで、恐怖ごと炎が吸われていく感覚が名前を襲う。抗おうとする名前を、暖かな手が触れて静止する。
「大丈夫。力を抜いて、身を任せて」
「ママっ……!」
明滅する視界と途切れかける意識の中、ママと呼ぶ声に名前は砂粒ほどに残った気力で顔を上げた。
その先で、鈍色と目が合った。
閉じかけた名前の目が驚きに瞠る。
「やぁ。無事でよかった」
「ひばり、くん?」
つい先ほどまで見ていたというのに、もう懐かしいとすら思える鈍色の目が名前の近くにあった。
「……この状況下で、よく頑張ったね」
そうだ。雲雀に似ていたのだ。
二人の子供の顔を思い浮かべて、名前はそう思った。
「後は僕に任せて、君は少し眠るといい」
20230827
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