沢田家長女 18
リング争奪戦 翌日 並盛中屋上にて
◆
「雲雀君大変よ、昨日私が燃やした教室が燃えてないの!」
早いペースで鳴る軽い靴音に目を覚ました雲雀が身体を起こすのと同時に、慌てたように開いた扉から名前が飛び出した。
音に驚いた小鳥が数羽飛び立つ。「沢田ーー」校舎内で走るなという注意は、日差しに輝く朝焼け色の眩さに飲み込んだ。
「……確認してきたということは、校舎損壊の始末書でも出しに来たのかい」
元に戻ることを知っているのは争奪戦初日の夜にいた雲雀だけで、名前は知り得ないことだ。雲雀なりの軽口で、心配の表れでもあった。
「う、それは……やっぱり、出した方がいい……?」
案の定、歯切れの悪い伺いが返ってくる。不安気に下がる柳眉に雲雀が「冗談だよ。今回は不問」と答えると、名前はあからさまに胸を撫で下ろした。
「それより、身体はもういいの」
「うん。軽い擦り傷と火傷が少しあるくらい。雲雀君達に比べたら無傷よ」
雲雀が尋ねたのは外傷のことではなかったが、甘やかな声も、濡れた蜜色の瞳も、美しい微笑も、普段過ぎるほど普段通りである。
「へぇ、それはよかった」
常の雲雀であれば、自らの質問に対して誤魔化しや嘘偽りを騙る相手は問答無用でトンファーの錆にしてきた。その方が手っ取り早いからだ。
今の沢田名前は明らかに誤魔化している。それでも実力行使に出ないのは、雲雀の知る沢田名前は外側の暴力には屈しないからだ。その美しい蜜色を黄金に染め上げ、眦を決して立ち向かう女であることを知っている。
雲雀がトンファーを翳せば、その瞬間から名前は二度と美しい微笑以外を雲雀には向けないだろう。
風紀委員と保健委員として接してきた二年と少しの歳月は、雲雀が沢田名前の扱いを学ぶには十分な時間であった。
けれど、それはまた、名前にとっても同じである。
目を逸らすこともせずじっと見上げる鈍色の双眸に、やがて観念したように名前は深く息を吐いた。
「聞いた? 私のこと」
そう言いながら隣に腰を下ろした名前の頬には涙の跡はもう見えない。
「沢田は思ってたより臆病だってことだけね」
「……そうね。本当は、とても臆病なの」
吐息混じりの声はあまりにか細く掠れていて、意識を向けていなければ聞き逃していたかもしれないほどだった。伏した瞳の奥には今にも消えそうな灯火が揺らいでいる。
それが昨夜見た、追い詰められた彼女の姿と重なる。
でもね、と続く言葉は無理に明るくしようとしたせいか僅かに震えていた。
「痛いことはまだ平気なのよ。それで死ぬわけではないでしょう? 昨日だってそう、毒でああなった訳じゃない。私が勝手に期待して、勘違いして、本当に些細なきっかけで自分を見失ったの。全部、自分が原因」
本当に臆病だと雲雀は思った。縋れば良いのにそれができない。手を伸ばせない。プライドが高い訳でもないのに出来ない理由は拒絶されることが恐ろしいから。
幼少期に、彼女の炎(本質)が彼らに受け入れられなかったように。
「だから、もし同じことが起きても、もう放っておいて。目を閉じてじっと耐えていればそのうち消えるから。……次は、もうないと思うけど」
見慣れた木漏れ日のような微笑に、明確に線を引かれたことを感じた。雲雀はあまり見ることのない、そう見えるように美しく飾った表情は完璧でありながら今にも剥がれ落ちそうで、名前はそれを懸命に保とうとしている。
「沢田は、本当に臆病だ」
そうやっていつも壁を作るのだろう。
雲雀が名前との日常を失わないために炎の中へ飛び込んだように、彼女もまた、沢田名前の日常を守るために。
健気だと思うのと同時に、有象無象と同じだと思われていることに雲雀は酷く腹が立った。
「君に負けるほど僕は弱くない。たとえ君がこの世界全てを燃やすことができたとしても、僕だけは絶対に燃えたりしない」
けれどその苛立ちは彼女へとぶつけても意味がない。弱く臆病なくせに群れない生き物は、傷を隠した獲物であることをよく知っていた。
だからこれは、狩りと同じだ。
どこが安全か示す必要がある。
誰が強いか理解させる必要がある。
「だから怖がらないで、沢田は僕の後ろでも横でもずっといればいい。……何度でも、僕が止めるから」
自分だけは味方だと、知らせる必要がある。
「ぁーー」
名前を射抜く鈍色の眼差しが強い意思をもって星が瞬くように閃く。
名前は蜜色の眼を瞠ると、
「やっぱり、あの時来てくれたのが雲雀君でよかった」
そう、固く閉ざされた蕾が綻ぶように微笑んだ。
「あのねーー」頬はにわかに赤みが差し、潤んだ蜜色の瞳は一層輝きを増していく。「ーー私、雲雀君が」
続く言葉は、ぽふん、という軽い音と共に白い煙に飲み込まれた。
「……え?」
煙が晴れたそこは今までいた並盛中学校の屋上に変わりない。けれど、全てが決定的に異なっていた。
「雲雀君……?」
並ぶように隣り合っていたはずの雲雀がいない。
澄み渡る青空は不吉なほどに赤く、空も校舎も何もかもが夕陽に染め上げられている。
小鳥の囀りも、生徒の声も、人々の営みも、一切合切が消えてしまったかのようだった。
途端にぞわりと肌が粟立つ。
頭の奥から急き立てるように鐘の音が高く低く響く。
逃げろ。
隠れろ。
そう囁く声が聞こえた気さえする。
つい昨夜、命をかけた争い事に巻き込まれたばかりである。雲雀であればどう動くか思考を巡らせながら名前が腰を浮かせたその時。
かちゃり、と音を立ててドアノブが回る音がした。
一気に緊張が走る。身体は凍りついたように動かず、屋上唯一の出入り口に視線が縫い付けられる。
きぃきぃと甲高い軋む音を立てて扉が開く。心臓は音を立てて鼓動を早め、自然と息は上がっていく。
ぺたり、と濡れた音と共に細い足が四つ、薄く開いた扉から現れる。
ごくりと喉を鳴らすのと同時に、
「ママ」「どこ」
幼い、啜り泣くような声が聞こえた。
「ママぁ」
「えっ……」
扉の影から現れた声の主の全貌に、緊張は一瞬で霧散し、名前は思わず困惑の声を上げていた。
名前や綱吉に似た色彩で、歳の頃はランボより少し上くらいだろう。名前の存在に気がついた琥珀色と灰色の四つの目が、夕焼けに染まる屋上の中、きらりと輝いた。
「ママ!」
20230826
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