短編 | ナノ

沢田家長女 11




 それはまるで、蕾のまま朽ちる花のようであり、凍りついた人形のようであった。
 朝日を束ねた髪が窓から差し込む陽光に透けて輝く。まろい頬は白く滑らかで、蜜を溶かし固めてはめ込んだような瞳は陰りを帯びて濃く色付いていた。ついぞ誰にも心開くことなく嫋やかに微笑む少女の、妖精か女神と見紛う美貌は閉ざされた世界で美しさと輝きを増している。
 女が部屋を見渡せば、三年間住んでいたとは思えない程生活感がない。
 備え付けのベッドと学習机があるだけの簡素な部屋。レースのカーテンもシーツも全て与えられた備品で、私物と言えば最低限の文房具と下着程度。嗜好品の一つもなく、部屋として整い過ぎたそこはそう誂えたドールハウスのようでさえある。
 思い出や生活感というものが極端に少ないのだ。ともすれば、女以上に。
 女はお目付け役であった。年が近いからと少女の護衛と監視役を兼ねて傍にいた。引き上げる時の痕跡を極力少なくするために思い出を作らないのは当然である。
 けれど。
 ……この方は、私がいなくなった後もこうやって生きていくのだろうか。
 嫋やかな微笑は、そう形作られた彫像と同じだ。ただ置き物のようにそこにあるだけ。寂しげに蜜色の瞳を揺らしながら、水底に沈む花のようにひっそりと消えていく。
「行ってください」
 女はたまらず、そう口に出していた。濡れた琥珀の瞳がぼんやりと女を捉える。
 少女は何も話さないし、女も聞くことはなかった。少女は女の役割を察していたし、女は、だからこそ少女に真心込めて仕えたのだ。
「あら、もうそんな時間? ごめんなさいね、少しぼんやりしてしまってて」
 三年余り、少女と共に女はこの山奥の修道院に似た学び舎で共に過ごしてきた。その任務も今日で終わる。明日未明に少女はこの国を去り、イギリスにある姉妹校へと留学する手筈になっている。全て女の上司が決めたことで、そこに少女の意思はない。
 だから、いけないとわかっていても、任務違反だと上司の姿が過っても、一度開いた口は止まらない。
「会いに行ってください」
 意図を理解した頭が、ふるりと横に揺れる。
「それが、私の最後の試練かしら」
「違います! 貴女はずっと我慢してきた。今日くらい褒美があっても良い筈です」
「そういう約束なの。万が一の事が起きた時、私は対処できないもの。いつ爆発するかわからない爆弾と同じ。今私が安全に居ることこそが褒美のようなものよ」
「そんな……そんなのって、」
 あんまりじゃないかと唇を噛む。言われていることは女にも理解できている。けれどもそれ以上のやるせなさに胸が締め付けられるのだ。
「……ありがとう。あなたにもつまらない学生生活だったでしょうけど、三年間付き合ってくれたのがあなたで良かった」
 ボンゴレ十代目の家族、それも初代直系の娘であれば心身共に様々な危険が伴う。身を守る力のない少女は忽ちに利用され尽くしてしまうことだろう。だから今後の安全と安寧を保証する為に、彼らから少女の存在を消す事を選んだのだ。
 この三年間、女は少女と共にいた。忠誠を誓った女のボスと上司の選択が少女の意思とは無関係であった事を知っている。求められた以上に約束を守り続けていた少女を知っている。
「私も、我慢強い貴女で良かった。……でも、それでも、私は今日貴女を、会いに行かせないといけないんです」
 誰にかは分からない。少女の交友関係は狭く完結していたから。
 何処にかも分からない。生まれ育った町なのか、遠い神学校なのか。
 とうに薄れきった血ではあるが、女にも少女に近しい血が流れていた。同僚の男よりも遠いそれは女の武器にもならず、一度たりとも役立ったことはない。けれど、その血に伝わるものが今さら女に囁くのだ。
 今日、必ず行かせないといけない、と。
「どうかお願いです、今日だけは、貴女の心に従ってください」
 啓示のようなそれを何と伝えれば良いのか分からず、懇願する形でしか女には表現できない。とにかく、このままこの何もない部屋で無為に過ごさせることはできなかった。

 ◇

 どうしてもと懇願され、半ば追い出されるようにして名前は三年余りを過ごした学園を出た。
 学内のアンティーク調の灯りとは異なる機械的な白い街灯が目新しい。申請を出せば外出そのものはできたが、名前は三年間、一度たりとも外に出ることはなかった。
 だって、どこに行けば良いのかわからなかったから。目を合わせようとしない父親と交わした約束が、外へ向かう気持ちを縛る足枷となっていた。
 すっかり様変わりした外の空気は、後ろめたさからどこか重たく感じる。
 重い諦念で沈めた幼い感情は今更浮かび上がることもなかったが、たった一人だけ、今も残照のように瞼に焼きついて離れない人影があった。もう名前を呼ぶこともないその人だけが沈んでくれない。
 そのせいだろう、迷子のような足取りは、けれどしっかりと意思を持って進む。まるで何かに導かれるようにたどり着いた先は、皆が通う並盛高校ではなく懐かしい並盛中学校だった。
 一帯の再開発に伴い、かつて通っていた校舎は旧校舎として既に閉鎖されている。名前が転校したその翌年に、そのままの姿で時を止めたのだ。
 空は既に日が傾き始め、遠くからは子供達の楽しげな声が聞こえている。見つかる前にと名前は静かに足を踏み入れた。
 薄らと白線が残るグラウンド。
 がらんとした下足箱。
 学年便りやお知らせが貼られたままの掲示板。
 旧校舎で行われた最後の卒業式のお知らせに足が止まる。本当は名前が出ていたであろう卒業式。現実では既に並盛から出て寮へと押し込められていたが。それらを眺めながら記憶を辿り、思うままに教室を見て回る。
 やけに傷だらけだった綱吉のクラスに、人が絶えない賑やかだった保健室。みんなでお昼を囲んだ屋上。
 全てがあの頃と同じまま、今着ている制服だけが違うことに感傷が込み上げてくる。
 丁寧に沈めた思い出が昇華されていくのを感じながら、名前は来て良かったと思っていた。
 必要だったのは我慢ではなく、手放したそれらを偲ぶための時間だったのだ。
 最後にと向かったのは応接室だった。
 扉を開けても緑茶の香りはもうしないが、黒皮のソファが並ぶ奥に鎮座する大きな机は記憶の中のまま変わらずにあった。
 瞼を閉じれば書類に目を通す横側が今も鮮明に浮かぶ。
 凛とした後ろ姿も。
 少し幼い寝顔も。
 怪我を見られた時の困り顔も。
 町を見下ろす穏やかな眼差しも。
 守ってくれた温もりも。
 触れた熱も。
 全部全部、覚えている。三年余りが過ぎても忘れたことなんて一度もない。忘れられるわけがなかったのだ。
 だってこんなにも好きだったのだから。
 自覚した途端の別離により、綺麗に終わる筈だった恋の芽は中途半端に引き千切られたまま心の奥底で沈み、知らないうちに大きく育ってしまっていた。
 だがそれも今日で終わる。今日が過ぎれば後は同じ一日を繰り返すだけ。行き場をなくした恋も、思い出も、抱えたまま生きていく。
 きっとこの先、何度恋をしても忘れることはないだろう。たとえ彼が忘れたとしても、声も姿も思い出せなくなっても。
 私はずっと祈っている。どうかーー
「さようなら、雲雀君」「沢田」
 ーーどうか、死なないでと。
「っ……!」
 張り詰めたような声に名前は反射的に振り向いた。いつの間に現れたのか、逆光に浮かぶ大きな影が応接室の入り口を塞ぐようにして立っている。
 名前の目が驚きに瞠る。
 記憶より少し大きな人影は暗く顔が見えずともはっきりと分かった。何よりその声を名前が聞き間違える筈がない。
 どうしようと、湧き上がる後悔と再び会えた喜びが胸の内で渦巻いた。接触を禁ずる約束が今になって蘇る。
 ゆらりと動いた影がかつかつと靴音を響かせる。思わず後ずさった足が机を蹴り音を立てた。それに気を取られた一瞬のうちに目の前まで迫った影を、名前は観念したように見上げた。
 鈍色の瞳は変わらず鋭いが、逆光で隠れていた顔は三年前より精悍さを増していた。知らない年月の経過を目の当たりにし、かすかに胸を刺すような痛みが走る。
「久しぶりね、雲雀君」
「そうだね」
 そう言いながら節ばった指先が名前の頬に触れた。目尻を拭う指のくすぐったさに首をすくめる。思いの外優しい手つきに、名前は心臓がうるさく跳ねるのを感じた。
「泣いてたの?」
「少し、懐かしくなっちゃって。みんなは元気?」
 上手く笑えているか、途端に不安になる。学園での三年間、それもつい今朝までの日常なのに、雲雀を目の前にしたら今までどうやって笑っていたのか思い出せなくなっていた。
「騒がしいのは変わらないよ。君の弟も強いのか弱いのかよくわからないままだ」
 変わらぬ日常。名前がいなくとも変化はなく、彼らは進み続けている。あの日から凍りついたまま、立ち止まっていたのは名前だけなのだと思い知らされる。
「君は」
「私もよ。元気にやれてる」
 だから、初めて雲雀に嘘をついた。
「……もう、行かないと。最後に会えてよかった。怪我しないでとは言わないけど、元気でいてね」
 頬に触れる雲雀の手に名前の手が重なり、ゆっくりと下ろす。雲雀の脇をするりと抜け出そうとする身体に、雲雀の腕が絡みついた。
 よろけた身体は難なく受け止められ、視界が黒に遮られる。鼻腔をくすぐる微かなお茶の香りに混じる甘やかな匂いと制服越しでも感じる手の熱に名前は眩暈がした。
「雲雀君、」
 これはいけないと咎めるように胸を押す。どれだけ力を込めてもぴくりとも動かない雲雀は、名前のささやかな抵抗すら封じるように腕の力を強めた。
「かえしたくない」
 少し掠れた低く優しい甘い声が、耳朶に息がかかるほどの距離でこぼれる。
「あの日、あのまま帰したのが間違いだった。赤ん坊も君の弟も、誰に聞いても君の行方は知らないって言うんだ」
 ボンゴレリング争奪戦。綱吉が勝利したその戦いに巻き込まれた名前を助け出したのは雲雀だ。また明日と交わした言葉を最後に、名前は並盛から去った。雲雀がその事を知ったのは既に名前が閉ざされた学園へと入った後である。
「ずっと会いたかった。あれからどこを見ても沢田を探してた」
 揺れるカーテンの奥に。視界の端に映った白衣に。町の雑踏の中に。雲雀はいつも名前の痕跡を探していた。もしかしたらどこかにいるのではないかと抱いた期待は、今日まで決して叶うことはなかったけれど。
「君は……?」
 痛いくらいの力に、名前は堰き止めていたものが溢れるのを感じた。
「わたし、も。私も会いたかった……!」
 会いたかった。話したかった。触れたかった。伝えそびれたあの日の返答をしたかった。口に出したら際限なくあふれ出てしまいそうで言えずに仕舞い込んでいた感情がこぼれ落ちる。
「好きなの。あの日助けてくれたからじゃない、その前からずっとずっと雲雀君のこと見てた!」
 押し返そうと突いた手はいつの間にか雲雀へ縋るように握っていた。身体が仰け反るほどに強く抱きしめられる。
「雲雀く、んっ」
 伝わる熱に凍らせた心が解けていく。体が軋む程の強い力は痛くて苦しくて声が漏れるのに、内側は暖かいもので満たされていくようだ。
 擦り合う肌の感覚に呼吸は次第に浅くなる。
「嫌だったら、言って」
 燃やされてしまうんじゃないかと思うほど熱が篭った眼差しに、名前は気が付けば答えるように首へ腕を回していた。
「嫌じゃ、ないから……もっと……」
 浮遊感と共に瞼をとじた。


20230804

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