ADVENT | ナノ
ADVENT / 
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「お前が約束を守れば、弟に手出しはしない」

 ×××

 大仕事を終えて、最後の仕込みも済ませた。男が自らの手で一文字を引く為に外した額当てを握ったまま、からからに渇いた心が向かった先は、里外れにひっそりと建つ古い見張り塔だった。
 大戦前から既に使われなくなったそこは、数年前の悲劇により倒壊の恐れ有りとして長らく封鎖されてきた。ーー表向きは。
 何重にも張り巡らされた結界と人避けの暗示がかけられた、見せかけの塔。慣れた手付きで術を潜り抜けた男が音もなく降り立ったそこは、まるで牢獄のような部屋だった。
 唯一の窓は天井近くにある小窓くらいなもので、日中は鬱蒼と生い茂る木々に覆われて薄暗く、夜は完全な闇の中に微かな月光が一条差し込む程度である。
 その冷たい満月ですら今は厚い雲に覆われ、窓から浸みるように降りた深更の闇が部屋を染め上げている。まるで男が憂いて止まないこの里に蔓延する悪意のように。
 けれど、それでもなお暗闇の中でも淡く発光するような黄金があった。
 人、それも幼い少女の形をしたそれに男が近づく。僅かに上下する布の塊を認めて、男はやっと、無意識のうちに詰めていた息を吐き出した。
 よかった、ちゃんと生きていた。安堵から強張っていた肩の力が抜ける。この幼い少女こそがこの牢獄の住人であり、男が最後に寄り道をしてしまった原因でもあった。
 薄汚れた古布の海にこぼれる髪は星を流したようにきらきらと輝いている。子供の顔にかかるそれをそっと手で払うと、活発であるはずの子供の年頃には似つかわしくない陽を知らない透けるような肌が露わになった。
 背を丸めて蹲るように眠る姿は、さながら警戒心の強い獣のようでもある。頬に走る三対の筋状の痣が、余計に少女を傷を負い手がつけられなくて檻に放り込まれた獣のように見せていた。
 きっと、この子をこの牢獄に閉じ込める者達にとっては、正しく獣なのだろう。それも血統書付きで誰よりも美しく、何よりも危険な人喰いの化生に近いモノ。
 だから、痛めつけるのだ。死なせてはいけないけれど、自分達が御しやすいよう傷つけ弱らせるために。
 数日の空白のうちに増えた傷を検分するように男の指先が少女の頬を滑る。決して死ぬことはないと知ってはいても、氷のように冷たい肌にぞっと悪寒が走った。
 誰よりも気配に敏い少女は、例え意識がなくとも近づく人間には反応する。それが、少女がここまで虐げられる原因となったモノに由来する能力だからだ。
 指先はやがて少女の血色の悪い唇へと辿り着く。口端にいくつも浮かぶ小さな水疱からして、おそらく毒を盛られたのだろう。
 触れるか触れないかのところで止まった指先が鉄の臭いを運んだのか、睫毛が僅かに震えた。反射ではないようで、意識が浮上する気配がした。
 けぶるような黄金に縁取られた、海と空を閉じ込めた珠玉のような碧眼がゆっくりと開く。鮮やかな天色が、少女と正反対の男の赤い瞳と交わった。
 本当は、直ぐに立ち去るべきだったのだ。余計な痕跡など残さずに、余計な未練など遺さずに。
 男にとって、この少女こそが理想だった。どんな暗闇の中でも輝きを失わなかった正しさであり、泥に沈められてもなお美しく膨らんだ蕾。そして、男が生きる世界の、変わらない日常のための犠牲だった。

「すまない、起こしたか」
 男の柔らかく甘い声に、隠しきれない疲労が滲んでいるのを察した少女が青褪めた顔のままのっそりと起き上がった。
 色褪せたシーツに散らばる黄金の髪が立てる微かな音が、夜の闇に吸い込まれていく。
「ううん……お兄ちゃんは、もう任務はいいの?」
 春の夜風のような囁きでまた一緒にいられるのかと言外に問われ、男は答えに窮した。
 たった一人の弟と少なくとも数多い血族。
 悪意に満ちた民草とたった二人の人柱力(いけにえ)。
 少女は人柱力、それも九尾に誰よりも適合した被験体だ。決して死ぬことがない事実を知る男は、初めて大切に仕舞い込んでいた宝物に優劣を付け、天秤にかけた。
 それは、自分だけは、絶対にしてはいけなかったのに。これでは少女を利用し傷つける者たちと変わらない。一度は受け入れた後悔が波のように男の内に押し寄せた。
「……まだ、終わりそうもないんだ」
 懺悔するように膝をついた男の視線が少女と揃う。
 いつか、自分が選んだものを、天秤に乗せたものを知れば、少女は弟のように憎しみを抱いてくれるだろうか。冷ややかな光を湛える青を想像し、男はゆるく頭を振った。
 しなやかな枝のような少女の心はきっと、それすら仕方のないことだと受け入れて、やがていつか懐かしい記憶として忘れるだろう。それは、少し嫌だと思った。
「でも、必ず戻る」
「うん」
「オレは、長生きできない。死ぬべき時を決めてしまった」
 それは少女とは関係のない理由で、既にどう終わるのかすらも予定されていて、少女のために残せるものは殆ど残されていない。
「それでもお前を迎えに来る。その時はこの里から出て、一緒に海に行こう」
「……海?」
「前に話しただろう。お前の目と同じ、綺麗なところだ」
 首を傾げ、逡巡した様子の少女がややあってから「しょっぱい水たまりの」と呟いた。
 彼女の世界はこの暗く冷たい牢獄が全てだ。包み込むような夕暮れも、満月の優しさも、鮮やかな大輪の花火も、同じ年頃の子供が当たり前に知るものの何もかもを知らない。代わりに毒の苦しみを、死ぬほどの痛みを、胸を満たす悪意ばかりを与えられて生きてきた。
「だからそれまでは、オレを待っててくれ」
 男が里を去れば、少女の環境はより劣悪なものになるだろう。代わりに少女を守れるであろう力ある人間は、まだ里に戻る気配すら見せない。
 そんな世界で一人約束を押しつけて、男は夜に溶けるようにして里を抜けた。


20230210

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