マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / マキリの娘とねじれた世界
0-5



 ウィークエンド前の夕食後、オクタヴィネル寮では消灯に向けて灯りが少しずつ落とされていた。
 寮舎から見上げる濃い藍色の水面(そら)からは、夜行虫の微細な光粒がしんしんと降りそそぐ。
 海の底の寮舎では地上のように星屑の瞬きや青白い月明かりは届かない。踊る陽光の中で色鮮やかな珊瑚に極彩色の小魚達が戯れる昼間の賑やかさとも打って変わって、皆寝静まった夜の海は生き物の気配が薄い冬の雪深い森を思わせた。
 寮生は各々、兜水母のささやかなイルミネーションを横目に自室へと戻ったり、貝殻を模した洋燈を手に窓際の長椅子で就寝前のティータイムを楽しんでいる。オクタヴィネル寮には、他寮と比べても豪奢な長椅子と揃いのアンティーク調の脇机が備品として置かれていた。そこで遮音魔法越しに遠く響く鯨の歌声や惑星の息遣いに耳をそば立て、ゆっくりと眠りにつくまでの時を過ごすのだ。

 そんな、いつもの光景。
 数ある日常の、いつかの真夜中。
 昏い海の底から水面を見上げていた少年へ、遠い昔に星の果てを夢見た彼らの話をしたことがあった。

「海の底(ここ)は、星が降るようだね」
 柔らかなベロアの背面に手を添えて、魔法で守られた大きな窓の奥を見上げている深夜が吐息をこぼすように囁いた。その視線の先では舞い上がる何億もの白粒と光虫が混ざり合い絶えず揺れ動く。濃藍に染まる海中で見える光景はさながら回転する天球儀のようだ。
 その横で背の高い耳付き椅子に腰掛けるアズールは、図書室で借りた革張りの上製本を開いたまま視線を上げた。その拍子にアズールが持ち込んだ蜜蝋のアロマキャンドルが静かに揺らめく。橙の仄かな灯りに照らされてもなお青褪めた肌は白く透き通り、海を彷徨う亡霊のように生気を感じさせない。
 大きな振子時計の鐘が鳴るのと同時に始まった海中ショーに釘付けられたままの視線に、おそらく思わずこぼれた独り言のようなものだろうと推測する。けれど、アズールは思わず言葉を返していた。
「あなた、星が好きですよね」
 アズールの声に深夜が振り向くと、学園からの支給品である、寮のシンボルカラーに似た薄水色の長いネグリジェの裾が広がる。フロイドと同じものであるのに、小柄な深夜が着ると途端に啓蒙な信徒を思わせた。
「そうなのかな。あまり、考えたことはなかったから」
 けぶるような長い睫毛が伏せられ、陶器のような肌に影を落とした。縁取られた深海を凝らせたような藍銅の珠は、灯りを呑むほどに昏く濃い。鮮烈なまでの青い燐光と魔力は露程にもなく、病的なまでの白さと相まって不吉な魅力を放っていた。
 それを見て、ふと考えた。この人間は堕落することはあるのだろうか。
 ヒトの姿をした者の欲は尽きない。それがどのような方向性、規模、属性であれ。アズールの経験上、殆どは小さな欲望を積み重ねて溺れていくものだ。けれど稀に、それが逆転する者がいる。
「人間は遠くにあるモノへ祈りを託すそうですね。あなたも何か、願い事でも?」
 叶えて差し上げますよ、と声を落とす。
 魔力を込めた甘い声は密やかに深夜の耳から神経へと伝わるが、薄く色づいた唇はなだらかに弧を描いた。「そういうのじゃないよ」声は吸音魔法がかけられた家具へと吸い込まれ広がらない。柔らかなアルトは少女にしては低く、少年にしてはまだ高い。
 煙に巻くような契約文も魔性による誘導も意味を成さない。人よりも遥かに高い対魔力は獣人にも勝る。
「星の外が、どうなっているのか見てみたくて」
 そう言って見上げた海面(そら)は遥か遠く、その果てに広がる本物の天体(そら)はさらに遠い。
 子供が語る夢物語のような物言いに、アズールは僅かに首を傾げた。
「……宇宙開発事業に興味が? 星読みを好む魔法士は嫌がるものですが、意外ですね」
 宇宙開発。魔法が使えない人間種が計画している、新たなエネルギーと活躍の場を見出すための事業計画。本当の目的は人がこの星から出るための挑戦だ。
 海から離れることを本能的に厭う傾向が強い人魚や地上を好む獣人種、特定の地に発生する妖精種などは消極的で、占星術や星読みを生業としている魔法士に至っては忌避する傾向にある。
 特に占星術を専門とする者の多くは星の並びの美しさや神秘性を愛し、過去と照らし合わせた未来の航海図として研究している。それはあくまでも天体という一つの図面としてであって、何光年もの時の隔りと瞬きへの憧れである。畏怖と敬意をもって取り扱う手段でしかなく、決して目標にはならなかった。
 一部の魔法士は浪漫がどうこうと熱く語り星間飛行機能を目指すこともあるが、あくまでも個人の趣味である。努力が認められて星座に上げられたという魔法士の昔話があるが、つまり大気圏の辺りで命を落としたのだろう。
 今はまだ必要ない。それが魔法士の総意だった。それ故、未だ机上の空論の域を出ない。
「へぇ。ここでは其処が秘匿される神秘なんだ」
「秘匿、という程でもないですけどね。知るべき時、知ってはいけない時、物事にはタイミングがあります。ただ、今はその時ではないというだけでしょう」
 不思議な言い回しに、聞き馴染みのない単語。言葉としての意味は理解できるが、そこに含まれた真意をアズールは解らなかった。だからきっと、深海のような閉ざされた共同体で暮らしていたのだろうと思っている。
「それで、なぜ星の外へ興味が?」
「私の家系の、悲願だから」
 悲願と呼ぶには、どこか寂寥感の滲む表情で深夜は続けた。
「肉体という枠組を超え、人の限界を克服し理想郷へと至るために一つの魔法を目指した。人間という種族をあらゆる憎悪、あらゆる苦しみから解放するために。
 けれど、どうしても人々は争い血を流し合う。もしもそれが人の身に起因するもので、この惑星では叶わないというのなら。見上げる先の遥かな宙、その果てを目指そうと、彼らは命を賭して挑んだ」
 それは、人の身には過ぎた大願だとアズールは思った。身を切る犠牲が伴う願いは長続きしない。そう一蹴するにはあまりにも悲痛で美しい祈り。
「結局は、いつか後に続く者たちが何百年後、何千年の後に遂げることを信じて手放した。祈りは誰かへと残されたままで、私は積み上げられた石の一つに過ぎない。だからこれがわたし≠フ願いかは分からないけれど、いつか、私は星の外へ行きたい」
 見上げる先、数多の魔法がかけられた窓の向こうでは、夜光虫の青白い光がしんしんと降りそそいでいる。海面は変わらず遥か遠く、その果てに広がる本物の天体はさらに遠い。
「行ったら、戻ってきてくださいよ。……商売になるものがあるかもしれないので」
 渇いた喉から掠れた声がもれる。日付けが変わり人が随分と減った談話室は静まり返り、鯨の歌声も惑星の息遣いも聞こえない。
 燃え尽きた蜜蝋のキャンドルの灯りが消えると、薄水色のネグリジェは途端に暗がりの中で色を濃くした。
 長椅子に落ちる裾はなだらかな曲線を描き広がる正装(ドレス)のようで。うっそりと微笑むひどく青褪めた美しい貌に、藍銅の瞳が紅く炯々と輝くのを幻視する。
 アズールにはそれが、祭儀服を纏う生贄のようにも見えた。
「いいでしょう。それが、君の願いなら」


20221020

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