マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / マキリの娘とねじれた世界
1-8

interlude U
 ◆

 しくじったと思った。
 アズールはずきずきと痛む足を引きずりながら空き教室の影に身を潜め、慣れた詠唱を口の中で紡ぐ。呪文と魔法石により指向性を与えられた魔力はアズールをたちまち包み込むと、頽れた姿も落とした痕跡も、アズールの何もかもを教室と一体化させた。
 一時的に姿を隠す魔法。
 隠すと言っても人避けに近い暗示の一種で、もっと高度なものは防衛魔法に位置付けられる。ランクを落とし生活魔法に近いこれは一方向から見た時にしか効果はないし、臭いや音までは誤魔化せない。
 あくまでも見た目を取り繕うだけの魔法ではあるが、アズールが得意とする魔法だった。当然上位魔法も習得できるが、グズでノロマなタコと虐められ続けたアズールが、一番最初に覚えた魔法だ。
 そのまま余計な音を立てないよう息を殺し、アズールを探す声と荒々しい足音を幾度かやり過ごす。
 やがて遠くに聞こえる鳥の囀りと風の音だけになるまで待って、辺りに気配がないことを何度も確認してからようやくマジカルペンを振った。
 島の外に広がる海の向こうでは傾いた日が赤く染まりつつある。
 本来なら寮内の自室にいるはずの時間帯だ。アズールは放課後、校内を歩いていたところ突然奇襲に合い、そのまま追い立てられーー誘い込まれるように、逃げていた。
 場所は人気のない本城上層階の端の資料室。これより上は学園長室か倉庫しかない。遠くから運動部の掛け声が聞こえるが、下からは見上げても手前に聳える尖塔が邪魔をしてアズールの姿は見えないだろう。
 階段を使うか、窓から飛ぶしか逃げ道がない。アズールの飛行術の成績ではこの高さから飛べば生タコ煎餅になるのが関の山である。
 そもそも、アズールが先代寮長へ決闘を挑み、勝利してからこういった事件事故は度々あった。その度にジェイドとフロイドは嬉々として迎え撃ち、当然アズールも応戦している。
 双子ならではの寸分の狂いもないタイミングで放たれるデュオ魔法と息の合った高度なトリオ魔法が鮮やかに飛び交う乱闘は、血気盛んな寮生にとっては寮長の座を賭けた決闘に次ぐ娯楽でもある。アズールもそれを承知して、己の力を誇示する場として大いに利用していた。
 ただ、今回はタイミングが最悪だったのだ。
 よりにもよってフロイドは遠征、ジェイドは明日まで山へ。部室に行くにも部長である男は学会だか夜会だかで不在ときた。リモートがどうこうと呪文のような不平不満をこぼしながら鏡を潜ったのをアズールは一昨日見送っている。
 観衆のいない場に一人。初めから狙われていたのだろう。アズールが一人になる、その瞬間を。
「くそ……」
 しんと静まり返った校舎にアズールの声が静かに落ちた。
 ありきたりな挟み撃ち。戦略も技量も何もないただの魔力のゴリ押しは、アズールから見ればあまりにもお粗末で戦法とも言えないものだ。
 それでも相手は腐っても上級生で、数で押されれば、海とは異なり足が二本、腕も二本しかないアズールは結果として逃げ場のない場所まで追い込まれてしまった。
 手の中できらりと光るマジカルペンを見る。
 今ここで救難信号を発したとして、寮生に伝われば協力は見込めるだろう。そう考えて、アズールは己の考えを否定するように首を振った。援軍なんてプライドが許さないし、今後の統治に響く。
 群を統率するのは賢い者であるべきというのはアズールの自論だ。たとえ、上級生多数に対しアズールが一人だったとしても、新たな弱みになりかねないきっかけは作りたくなかった。
 海の中は、いつだって弱肉強食なのだから。
 それに、フロイドとジェイドがいなければ喧嘩もできないと思われるのは心外だった。
「大丈夫、」
 誰よりも深い魔法の知識がある。
 決闘に勝ったという自負がある。
 
 こつこつと廊下の石畳で反響する靴音が徐々に近づいてきた。
 窓しか逃げ場がない以上、アズールが同じ階に隠れていることは確信している筈だ。態と音を立て居場所を示す足音は余裕の表れでもある。
 そういう時が、人間は一番油断をするのだ。
「僕はもう、グズでノロマなタコじゃない」
 ……墨をかけるだけでは済まさない。
 怒りと魔力に呼応するように、アズールの手の中でマジカルペンが光を帯びた。
 扉の外に人の気配を感じ取る。ペンを構えたアズールはその先へと狙いを定めーー
「見ィつけたァ」
「フレイムーー」
 ドアの横にある曇り硝子の窓が音を立てて割れる。軌道修正しようと目標を補足したアズールを、飛び散る欠片の奥から、歪んだ目が覗いた。
「ぁ」
 加虐の愉悦に満ちた人間の笑みだ。
 意味を持たない声が喉から漏れる。呪文は途切れ、法則を失い乱れた魔力は破片を巻き込みながら霧散した。
 同時に、精神の高揚から視覚の精度が上がる。きらきらと光を反射させる硝子片が海の泡のように宙を舞うのをただ見ていた。
 ……しくじった。
 アズールの頭は瞬時に次の展開を予測したが、全身を走る怖気と嫌悪がアズールの自由を奪う。男がアズールへと伸ばす手は見えているのに、末端を制御する神経の異常停止(エラー)で思考と手足の連携が取れない。
 その僅かな硬直で、
 アズールに黒い影が伸びて、
「ーーボイドショット」
 瞬きの間の静寂は、唄うような声で終わりを告げた。
「っ、フレイムブラスト!」
 水の世界へ戻ったように全身の自由を取り戻したアズールが重ねるように呪文を叫ぶ。紡いだ魔力は炎を帯びると、弧を描きながら男へ飛ぶ黒い魔力の塊へと灯った。
「うわぁあっ!!」
 男へと当たった魔法の炎は着崩して晒された肌を舐め上げる。その熱さに驚いた男は悲鳴を上げて転倒した。
 アズールへ魔法を使おうとしていたのか、暴発した魔力が破裂音を上げながら四方に飛び散る。
 思いの外響いた派手な音は下の階まで伝わったようで、こっちだという声の後、複数の足音が一斉に階段を駆け上がる音が聞こえた。
 近づく喧騒に混ざりかつかつと鳴る高い靴音が一際響く。
「こんなところで奇遇ですね」
 アズールは制服を叩き、飛び散った硝子を落として立ち上がった。手にするマジカルペンは僅かに曇っている。
 廊下の暗がりへと視線を向けると、強い西日が黒灰色の城内を赤く染める中、青い燐光を放つ魔力がきらきらと輝いていた。
「どうしてここに?」
 影から産まれるようにぬっと現れた濃紺はこてりと首を傾げると「トレイン先生のお使い」と答えた。
 人避けの魔法に気づいた上で無視をしてきたようで、呪い破りの痕跡が、まるで藻を引っ掛けて走り回る稚魚のようだとアズールは思った。
「おい、いたぞ!」
 遠かった声は、今やその内容を聞き取れるほど近い。
「アーシェングロット、箒はある?」
「健全なオクタヴィネル生ですよ、あるわけないでしょう」
 デッキブラシで飛ぼうとした奇行を思い出したアズールは大きく息を吐いた。いける気がすると言って聞かないシンヤに、クラスメイト総出で止めた記憶はしばらく忘れないだろう。口元の笑みを見るに、和ませようとした彼なりのジョークのようだが。
「なら、援護をお願い。対価は寮までの無事と送迎でどうだろう」
 手にしたマジカルペンがきらりと光ると、背筋が粟立つほどの魔力の渦が生じる。それは不思議と、双子と企み事をしている時のような高揚感さえ感じた。
「えぇーー乗りました」


 ◆

 全てが青い影に飲み込まれ、夕焼けよりもなお鮮やかな色が爆ぜた。

 触れたそばから陽の色に染まる黄昏の中で、それはあまりにも幻想的だった。
 嗅覚が拾ったつんとした鉄分に頭がくらくらとする。酩酊する頭は、不意にフロイドが言っていた「土と水の臭いの奥で、熟れ過ぎた果物の臭いがする」という言葉を思い出させる。
 随分とうつくしく、けれど幸薄そうな貌をした人間だった。
 緩やかに波打つ濃紺の髪は地に落ちる影に似て、昏い眼差しは立ち入ることを禁じられた深海を思わせる。それに加えて、人間にしてはあまりにも白く青褪めた肌と華奢過ぎる肉体。
 かつて伸ばされた手は枯れ枝よりも細かったのを、アズールは今も覚えている。
 亡国の貴人と言われたら信じる者がいそうな程、幸福とは縁遠い鬱々とした美貌を持っていた。
 人魚や妖精などの人外とはまた異なる、魔に魅入られ不幸に身を置く人間種特有のそれ。
 見知った青く燃え盛る冷たい炎とはまた違う、ひたりひたりと忍び寄り首筋を撫でるような、濃密な死の気配。
 足下深く、暗く昏い海の底。
 その色を纏う不思議なヒト。
 その昏い色彩と魔力は、アズールの目に色鮮やかに焼き付いた。
 まるで、悪い白昼夢のように。


 interlude out



20221002

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