マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / マキリの娘とねじれた世界
0-4

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 ウィンターホリデーの帰省者で賑わう声も静まって久しい、小魚の囁きも鯨の唄も聴こえない夜更け過ぎ。雪の音すら届かない海の中、あまりにも静かだからか、耳が拾った微かな泡の音にアズールの意識は眠りの底から引っ張り上げられた。
 窓の外の暗闇を確認し、再び目を閉じる。そうして何度か寝返りを打った後、アズールは読みかけの本を手に寝台を抜け出した。
 再び眠るには少しばかり目が冴えてしまった。
 温かい紅茶で暖まって眠気が再び顔を出すまで時間を過ごすとしよう。せっかくの冬季休暇なのだから、たまには多少の寝坊くらいは良いだろう。
 そう言い訳を並べながら貝殻を模した洋燈の光が揺れる廊下を進む。古代の大型海獣の骨で造られた螺旋階段を降り談話室の扉をすり抜けると、中には思いもよらぬ先客がいた。
 紺青の髪が波打つ、深海が人の形を象ったように美しく昏く冷たい空気を纏う同級生。
 彼の洋墨よりも深い色をした眼は魔力を通すと研磨された宝石のように輝く。アズールはその眼が向けられると、心の中身が曝け出されたかのような羞恥と足の届かない浮遊感が王の雷の如く全身を走った。
 今まで感じたことのない居心地の悪さは自然とアズールを避けさせたが、気がつけばその姿を目で追っていた。見かけなければ人集りの中に濃紺がいないかと探してしまうほどには。
 だから、朝から姿を見ていなかったから、てっきり帰省したものだとばかり思っていた。
「帰らなかったのか」
 口を衝いて出た声が自分のものだと気がついたのは、見つめる先で髪に隠れた白い顔が露わになった時だった。
 アズールへと向いた紺青が瞬く。遠くで揺れる水音が低く伝わる室内で、ゆっくりと明滅を繰り返す数多の夜行草の灯りが瞳の色を変えている。
 アズールを認めた青白い顔に疑問が浮かぶのが見てとれて、アズールは足早に近づくと巻貝を模した小さな手持ち洋燈を間に置き、隣に腰を下ろした。
「朝から姿を見ませんでしたから」
 紺青が再び瞬く。続きを促す眼差しにはつんと顔を背けた。せっかく持ってきた本は開きもせずに、表紙の文字に目を滑らせるばかりだ。
 自分でも行動の意味が理解できなかった。
 心配をしていたのだろうか。
 自分が? この得体の知れない男に?
 まさか、と思う一方で間近で見下ろした美しい顔に困惑が浮かぶと、向け先の分からない苛立ちが腹の奥で渦巻いた。
「夕食の席にもいなかったでしょう」
「……用事でもあった?」
 何故そう言われるのかが分からないという声音にアズールの苛立ちは増していく。
 用事がなければ話しかけてはいけないのか。すんでのところで飲み込んだ言葉に、これではまるで親の理解を得られない子供の癇癪だと思い直した。
「寮長として点呼を行なっていました。最終的に残った人数の報告がありますから」
 ただの方便である。ウィンターホリデーは帰省するもしないも生徒の自由だ。
「そう……手間をかけてごめん」
「あぁ、いえ……そうではなくてですね」
 上手く言葉が選べずに口籠る。普段よく回る口はどうしてか貝のように閉じてしまった。
 どうして気になるのか。
 じっとアズールを見上げる深海に似た深い紺青の瞳は、洋燈の灯りで鮮やかな血色にも見えた。特段赤色が好きというわけではないが、この命の色は何よりもアズールを惹きつける。
 アズールは魔法から宝物までたくさんのものを蒐集してきた。だからきっとその一つとして手元に置きたいのだろう、と思っている。とは言え、流石に他人の目玉は奪えないし、ホルマリンに漬けて人魚姫のフォークのように眺めたいかと言えば、別にそうではない。
 とにかく目が離せない、それに尽きる。
「そんなことより、どうしてエレメンタリースクールレベルの基礎を?」
 アズールは沈みかけた思考を緩く頭を振って払うと、青白い顔が見下ろしていた古めかしい本へと視線を滑らせた。
「来たばかりで何も知らなかったから」
「初等教育は受けていないのですか?」
 答えに悩むような素振りを見せたあと「此処のはね」と首を振った。
 その返答に、アズールは顎に指をかけて思案する。今は改善されているが、入学当初はグレートセブンすら知らなかった。
 だが、赤子レベルのそれに対し、防衛魔法は魔力の扱いに長けた人魚や妖精(われわれ)と互角である。
 思い出すのはアズールを助けた強力な水魔法だ。集団で襲われ咄嗟に動けずにいたアズールに、その上級生達を羽虫を払うが如く蹴散らし追い詰めた力は魔力の多さだけでは説明がつかない。
 何より、魔法で戦うことに慣れた動きをしていた。
 韻の整った呪文。しなやかな身のこなし。小さく薄い身体のどこにしまっていたのか、美しさすら感じるおぞましいほどの魔力。異質な眼。
 ……どうしたらそうなるのか。
 ……どうしたらそれほどの力を得たのか。
 人魚や妖精は神秘の色濃い高位存在であればあるほど相手のバックボーンを本能的に感じ取ることができる。
 アズール達のような現代に寄った存在では、ただ向かい合っただけでは人間か人魚かそれ以外かの判断程度だ。目の良いアズールであれば、心を通わせればもっと深く知ることも可能ではあるけれど。
 硝子越しに深い色をした目を覗き込む。弾かれた魔力に「知りたいの?」と囁かれアズールは笑みを深めた。
 ……少なくとも人魚ではない、けれど水にとても縁の深いヒト。
 人の形をしているが、きっと純粋な人間ではないのだろう。かと言って混血の気配でもない。
「ええ。貴方に興味があります」
 ……知りたい。その秘密がほしい。
 知らない呪文を見つけた時のような高揚感に身体の奥が震える。未知を暴く知的興奮にも似た、得体の知れないものに感じる恐れと仄かな欲が混ざり合ったものだ。
「それに、十五年分の勉強を一人で行うのは大変でしょう。よければお手伝いしますよ」
 何故もっと早く声をかけなかったのだろう。
 自然と口角が上がるのを感じながらアズールは澱みなく言葉を紡ぐ。
「代わりに、先日のように守ってもらいたいのです。お恥ずかしい限りですが、僕の陸での身体能力は飛行術で見たでしょう? 荒事はフロイドとジェイドに任せきりでしたから、貴方も付いてくれるなら安心できる。いかがですか? 互いに損はありません」
 勉強を教える。代わりに守ってもらう。実際は四六時中アズールの側に共にいることになる契約だ。
「代わりに私のことを教えろ、じゃないんだね」
「ゆっくりと知っていくことに意味があるんですよ」
 契約でしか他人を繋ぎ止められない。契約という形以外の関わり方が、アズールにはまだわからなかった。
「さぁ、僕と契約を!」


20220911

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