マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / マキリの娘とねじれた世界
0-3



 紙を捲る。やや古めかしい紙は馴染みのある上質紙ではなく、見慣れた皮紙だ。手の込んだヴェラムの装丁は艶やかで手によく馴染む。司書の魔女に勧められた古代史から中世史までがまとめられた最も有名な書籍だという。
 棺から目覚めて早三ヶ月。とにかく知識を詰め込む日々だった。サーヴァントであれば聖杯から現代の知識を付与されていたのだろうが、今は聖杯戦争でもないし、深夜の事情も違う。
 分かったことと言えば、どうやらここは本当に学校であり、世界的に有名な男子校であるということ。深夜は即座に自身へ認識阻害の魔術をかけ、更に校内での携帯が義務付けられている宝石ペンにも暗示を重ね掛けした。
 性差が分かりにくい栄養が足りない薄い身体とは言え、誰かに知られてしまった時にここを追い出されないという保証も無い。幸いにも、女子が居るとは思わないからか興味がないからか、同室者に気取られた事はない。
 平時から小さな呪詛が飛び交う権謀術数渦巻く魔境に身を置いていた深夜は、困ったら誰かに相談するという思考の方向性がなかった。
「おはようございます、シンヤさん」
 甘く響く声に深夜が顔を上げると、同室となった少年ーーアズール・アーシェングロットがいた。
「おはよう」
「今日も図書館ですか?」
「うん」
 言葉が切れる。視線は再び踊るような文字列へと戻される。アズールの存在を欠片も意識していない返事に、彼は深夜の持つ数冊の歴史書を見た。エレメンタリースクールで使うレベルのものから教科書の補足参考書として使われるものまで様々だ。範囲も古代史から近代史まで揃っている。アズールから見ても良い選書だった。
 アズールの印象での深夜は授業態度は非常に良いが、成績は非常に悪い。最近は改善傾向にあるようだが、同室でありながら接点が朝晩の挨拶のみでクラスも離れているアズールも、その噂は耳にしていた。基本的なマナーや仕草は上流階級のそれに近い為、NRCに選ばれる素質はあるが今まで勉学を怠っていたのか、それともただの箱入りか。
 熱砂の国の御曹司の例もあることから、努力に裏打ちされた成績を上げるアズールは、教師陣から度々気にかけるよう頼まれていた。しかし相応の対価もなく、同室者とは言えその深海の如き瞳にやや苦手意識が残っていたアズールは一度も応じた事はない。元より人魚の多くは無自覚にうっすらと人間嫌いだ。
 あまりに長く見すぎたせいか、視線に気づいた深夜がアズールを見た。途端に心臓が跳ねる。青褪めた顔に浮かぶガラス玉のような濃紺に、思わず目を逸らす。
「リーチ達を起こしに?」
「ええ。あの二人だけでは間に合いませんので」
「そう」
 深夜はそのまま視線を手元の本へと戻し、アズールは部屋を出た。
「では、お互い遅れないように」
 聞こえているのかいないのか、戻された視線は揺らぐことなく本を見つめている。
 アズールは後ろ手で扉を閉め、そっと息を吐いた。
 部屋を出ると、深夜に告げた通り同郷の二人の部屋へと向かう。
 オクタヴィネル寮はその殆どが人魚であることの配慮から、寮の八割が同室であっても寝室が分けられている。双子の部屋は残り二割の大部屋だが、アズールの部屋は人間と人魚用に風呂場まで分けられているタイプだった。
 それでも陸の人間に無防備な姿を晒すことは避けたくて、自室は早くに殆ど着替えと荷物を置くだけの部屋になった。生活の大半は双子の部屋で過ごしている。
「お前たち、朝ですよ」
 双子の対照的な声に力が抜けたことで、アズールは今まで自分が緊張していたことに気がついた。
 ……寮長にさえなれば、一人部屋が約束される。それまでの辛抱だ。
 昏い深海を彷彿とさせる深夜の瞳がアズールは苦手だった。それでも時折、吸い寄せられるように覗き見てしまう。
 宝石が見る角度によって色を変えることがあるように、深夜の深い色の瞳もまた、違う色彩に見えることがあった。
 部屋を出るその瞬間に見えた、貝殻のランプに灯された青褪めた横顔が、アズールは目蓋に焼き付いて離れない。



20220905

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