マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / マキリの娘とねじれた世界
1-2




「さぁ、契約を!」
 アズールはイソギンチャクを生やした彼らの懇願に秀麗な眉を一瞬顰め、ユウを見下ろした。
 後ろで繰り返し契約を結ぶよう懇願するイソギンチャク共は、居場所の無い子供が住処を追われる事の重大さに気がついていない。付き添いだと言う獣人の新入生はあくまでも見守っているだけなのか、心配を滲ませながらも静観の姿勢を崩さない。
 いくつもの視線を向けられているその本人は、青ざめた顔で俯き、ペンを握りしめていた。
 その様子に、アズールはそうとわからないように嘆息した。
 これではきっと、契約書に『オンボロ寮を担保とした後、前住居者はアズールが責任を持って新たな住居を提供する。また、解放した3名は今後ラウンジへの立ち入り及びアズールとの契約の一切を禁止とする』と記載されている事に気がついていない。
 アズールは確かにオンボロ寮が欲しい。だがそれは、手違いで召喚されただけの居場所も魔力もない、仮にも学園に保護≠ウれた人間を追い出してまでの欲では無い。むしろオンボロ寮なんて廃屋を当てがわれたその境遇を哀れに思い、慈悲の心で以って最低限文化的で健康な暮らしを保証しようと考えていた。ーー例えば、考案中のモデルルームの体験など。
 上手くいけば学園の金でリフォームが可能になる。ついでにカモにもならない人間を縄張りから追い出せる。
 アズールは異世界の知識に興味もあったが、これは言うなれば経歴にひっそりと飾れるボランティア活動である。普段、指定暴力団(深海ヤクザ)と揶揄されていようが、まだ契約もしていない、明らかに敵意の無い自分より遥かに弱い生物を甚振るほど、アズールは外道ではなかった。
 しかしその一方で、俯き細く息を吐いたユウの顔には、脂汗が滲んでいた。
 アズールの歌うような声が脳を揺さぶる。まるで契約をしなければいけないような、追い立てられた小魚が救いを求めて網に飛び込むような、そんな心地だった。
 耳元で叫ぶグリム達の懇願さえユウには既に遠く、意識の外へ追いやられていた。アズールの声だけが教会に響く賛美歌のように脳に木霊している。
「は……」
 目が眩む。言葉は耳を滑り、理解する間も無く溶けていく。音で脳が揺れている。吐き気がするほどの言葉の洪水に、干からびてしまうんじゃないかと思うほどの汗が流れ出る。
 魔力の無い世界から来たユウの身には、この世界の人間達が持っている最低限の魔力耐性や慣れと呼ばれるものが一切備わっていなかった。だから生粋の人魚であるアズールの声で魔力酔いを起こしたところに、高位の魔獣の幼体であるグリムの心からの懇願に脳が揺さぶられ、一種の催眠状態に陥っていた。怪異に手招きされた人間と同じである。
 グリムのユウを呼ぶ声に突き動かされるように、震える手でペンを取る。心では嫌だと叫んでも、体が自分のもので無いように動いていた。声も出せない恐怖にじわりとユウの目に涙が滲む。
 正面に座る美貌の人魚の柳眉が訝しげに揺れるのを、ユウのぼんやりとした虚ろな眼差しが見つめる。その直後、目の前を一匹の蝶が横切った。
「ぁ……」
 ユウの身体から力が抜ける。あれほど自由のなかった身は、先ほどまでの硬直と緊張が嘘のように霧散していた。意識を断裂させるほどの、鮮烈なあお。からからのユウの喉から「きれい」と掠れた声が滲み出た。
 蝶は青く輝く鱗粉を煌めかせながら優雅にユウとアズールの頭上を旋回し、ユウのペン先へと止まった。
「アズール、失礼するよ」
 それは、ユウにとっては聞き覚えのある、ひどく静かな声だった。
 いつの間に部屋にいたのか。ユウは未だ強張る体を油の切れた人形のように動かし、小さく息を飲んだ。白皙の美貌に浮かぶ瞳が印象的な、深い青色をした優しくて美しい先輩だった。
 登校初日、エースと喧嘩したグリムが放った炎によってユウは僅かに喉を焼いていた。小さな違和感は次第にじくじくと疼き熱を孕んだが、あまり問題を起こさないようにと言われていた手前、言い出せずにいたところをただ一人気付き、保健室まで連れて手当までしてくれた優しい人。その人こそが、目の前の先輩だった。
 ユウはその夜明け前の空に似た瞳を呆けたように見つめる。恐怖と諦観に支配されていたユウの心に僅かな希望の光が差した。視線に気づいた彼は小さく笑みを浮かべる。不思議と、体はもう自由に動いていた。
「……シンヤ、今は商談中です。急ぎでなければ後にしてください」
「その商談のことでね。少し耳に入れておきたいことがあるんだ」
 そう言い、ユウがいつか元の世界で見た、最も星に近い山の頂きから見える天のような静けさを湛えて、優雅な動作でマジカルペンを振った。
 ペン先にいた青い蝶がふわりと舞い上がり、その肩へと止まる。
「うわっ!?」
「ぶなぁ!!」
 グリム達の体が何かに引っ張られるようにして、凄まじい速さで部屋から飛び出していく。遠くから驚く声と共に入り口のベルの音が聞こえると、グリム達が飛んで行った先を一瞥した深夜はぱたん、と小さな音を響かせて扉を閉めた。
「さて、その前にまずはお茶でも飲もうか」
 表情を一切変えずそう告げた深夜に、深いため息を吐いたアズールがソファに深く沈みこんだ。後ろではジェイドが声もなく笑っている。
「ジェイド、ユウにはブレンドを出してあげてくれ」
「僕達はアッサムで。……君はどうしますか?」
「じゃあ……監督生と同じものを」
「かしこまりました」
 片手で胸を押さえ、綺麗な礼をしたジェイドが退室した。アズールは書類をユウの前から遠ざけ、フロイドに執務室に置いてくるよう指示を飛ばしている。困惑するジャックとユウを置いてお茶の準備が粛々と進められていた。
 サービングカーにティーセットを乗せて戻って来たジェイドにより、ユウはブレンドティーの説明を受けている。その横で、ジャックは正面に座ろうとした深夜を「あの……」と声をかけ引き止めた。そして返された言葉にピクリと耳を動かし黙り込む。
「君はユウの側にいてあげて。気付いてるんだろう?」
 それを耳敏く聞いていたアズールが説明を求めるように深夜を見上げている。
 アズールの隣に腰を下ろした深夜は人差し指を唇に当てると、うっそりと美しく微笑んだ。


20220331

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