マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / Fate/fall butterfly
scene10


十四日目
 二月十三日



 イリヤスフィールは耐久試験的に吹雪の中へ放り出されたり、魔獣や狼が放たれた森の奥に置き去りにされることはあれど、深窓の令嬢として育てられた歴とした貴族令嬢である。今までの礼儀教育からすると、自身に着いてきた従者であり同胞からはしたないと小言を言われてしまうだろうと思いつつも、畳の上で暇を弄ぶように寝転んでいた。い草に親しみはないが、自然を感じる良い香りは不安でささくれ立った心を多少なりとも落ち着けた。
 手慰みにページを捲っていた本を持ったままぐるりと仰向けに転がると、本の奥に見えたそれに、小さく息を呑んだ。
「ーー」
 逆さになった視界にここには居るはずのない青い翅が映り込む。衛宮邸を囲う塀や庭先とは馴染まない、色鮮やかな青。
 弾かれたように立ち上がったイリヤスフィールが後を追って廊下を走る。その目で見たことはないが、イリヤスフィールはそれを知っていた。イリヤスフィール達ホムンクルスだけが見る夢の中、冬の城の記憶にいつからか紛れ込んでいた青い翅。同じ存在しか入れないはずのそこにいつの頃からか現れる、アインツベルンにとっての害虫。
 イリヤスフィールが中庭へと降りると、待ち構えていたかのように青い羽虫は庭先で翅を広げていた。
 メッキが剥がれ落ちるように、濡らした紙に墨を垂らしたように、青く仄光る翅が黒く染まる。小さな水音を立てて液状化する様は腐り溶けた死骸のそれだ。意図に気付いたイリヤスフィールが魔術を行使するよりも早く、地中で根が伸びるように、黒い魔力の影が衛宮邸の庭先で広がる。これほどの異変が起きても、結界は未だそれを侵入者と見做さなかったのか、術者に異変を知らせていない。
 中庭は瞬く間に地面を黒い影で染め上げられ、血管のように浮き出た赤い回路が脈打っていた。花開くような歪な陣を描いたその中央に黒い影を纏った少女が現れる。「サクラ……」イリヤスフィールは思わず呆然と呟いた。そのあまりの変貌にもう助からない、長くは保たないと直感する。
 幽鬼のような足取りで近づく桜がイリヤスフィールへと手を伸ばした。纏った影がふわりと広がる。影はイリヤスフィールを取り込もうとしゅるりと渦を巻くと、それを牽制するように足元を砲弾のようなガンドが貫いた。
 境界線のように引かれた穴に桜の足が止まる。「うちにいたんですね」昏い影を落とした顔がガンドを放った魔術師ーー遠坂凛を見た。凛は庭の地面を抉ったように、いつでも桜を止められるよう、指先は真っ直ぐに標的へと向けられている。
「士郎と違って、私にはあんたを助ける理由がないもの」
 凛はイリヤスフィールを下がらせると、桜と対峙するように前へと進む。その堂々とした姿に桜の眉が揺れ、影が濃さを増す。今はもう、以前はあまり気にならなかった、凛が士郎の名を呼ぶことさえも不愉快だった。
「そうですね……綺麗なままでいられる遠坂(ねえ)さん≠ヘ、汚れた間桐桜(わたし)のことなんて、助ける理由もメリットもないですもんね。でも……私、そんなに悪い子ですか?」
「当たり前じゃない。あんたは、間桐桜を守りたがっていた奴を最後まで信じてやらなかったんだから」
「ぁーー」
 姉の淡々とした声音に一瞬だけ、少しの怒りが込められたことに桜は気がついた。呆れと憤りだ。言いつけを守らず、黙って一人で行動して間違えた。今まで散々繰り返してきたこと。そのことを責められると、桜は何も言えなかった。正論ほどよく刺さるもので、今まで粘りつくような感情を込めていた視線は自然と自身の影が浮かぶ地面へと落ちていく。
 反論の余地はなかった。けれど、今の桜はもう違う。「ええ、確かに、今まではそうでした」唇からこぼれ落ちる毒よりも甘い声に口角は上がり、ゆっくりと弧を描く。俯いていた顔を上げると、後ろ手に宝石を握り締めた遠坂凛が警戒する猫のように背を丸めて桜を見ていた。
 嗚呼、気分が良い。
「ーー姉さん、私もう弱くなんてありません。これからは姉さんが家に籠もっていてください。先輩は、私が守りますから。だってーー私の方が、強いもの」
 桜の背後で虚数に属する血のような炎が立ち上り、青い蟲が羽ばたいた。カチカチと牙を鳴らしたそれは影から次々と飛び出し、桜を守るように円形に展開していく。それを見て凛は間桐深夜だと歯噛みした。魔術師としての格は凛の方が上でも、魔術師の戦いにおいては第四次(前回)の戦禍をくぐり抜け、生き残った深夜に軍配が上がる。凛に接近させないよう、影で境界線を引いているのも深夜からの入れ知恵であろう。
 桜が凛へ向けて手を伸ばす。攻撃に出る前に守備を固めた分隙が生じていた。変わり果てた桜の異様さに気圧された凛だったが、瞬きほどの間で理性を取り戻し影が動き出すよりも早く魔術を口にする。
「ーーVerschwinden(大斬撃)!」
 呪文と同時に回路を励起させた凛は握りしめていた宝石を宙に放った。庭に予め設置していた迎撃用の宝石からも稲妻が放たれたが、全て青い翅の蟲が防壁となり防がれる。しかし、それはあくまでも目くらまし。本命はこの指先から放つガンドだ。
 一工程の簡易な魔術だが、ガンドの刻印が刻まれた銃身である腕に魔力を通すことで瞬時に高密度の魔力を込め、更には高い物理的破壊力を持つ。それに加え、魔力が込められた秘蔵の宝石が色とりどりに輝きながら雷電を帯び、凛の指先へと刻まれたルーンの効果を齎していく。
 それが、桜を後押しする最後の一手だった。
「ダメですよ、姉さん」
 凛の魔術を遮るように影が伸びる。
 網状に伸ばされたそれは凛を下から掬い上げた。伸びた影は頭上にも展開し、凛を覆う籠のように広げられる。
「そんな魔術を使ったら、家が壊れちゃうじゃないですか」
 影がこぼれる。
 桜は凛へと伸ばしていた手のひらを、躊躇いもなく羽虫でも潰すような軽さで握った。
 それを合図に影の網は追い詰めた魚を絡めるように高速で回転しながら幅を狭めていく。凛は網を突破しようと魔力を流すが、魔術を起動したそばから黒い影へと吸われ為す術もない。もとより、聖杯の中身である影と繋がったことで無尽蔵の魔力を有する桜が相手では今の凛に勝ち目はなかった。
 轟音を立て、影が凛の魔術を破壊していく。影に触れた宝石が檻の内側で爆発し土煙を上げる。影は泥となり凛の身体に付着すると、身体機能を束縛し、体内の魔術回路へと侵入した。
「ふふ。お姉様が食べているのを見てたから、魔力を戴くの、ずっと楽しみだったんです」
 興奮から頬を紅潮させた桜が恍惚とした表情で呟いた。収束する影が解けると、中で影に蹂躙された凛が、油を被った海鳥のように泥に塗れた状態で崩折れる。地面に倒れ喘ぐように息を吐く凛の様子を眺めながら、桜は「戴きますね」とその惨状からは不釣り合いに顔を綻ばせ、影を手繰る。
「っ、く、ぅぁーー」
「おいしい……これが、姉さんの魔力なんですね……!」
 魔術師から直接吸い上げた魔力の甘美さに身体を折り曲げ、打ち震える。凛の魔力を残さず吸い上げた桜は、けれどその余韻に浸ることなく昏い眼差しで凛を見た。 四肢を投げ出しぐったりと倒れ、吐息を漏らす凛にもはや抵抗する力はない。出し殻のような状態では、魔力を回復するだけでも一日以上はかかるだろう。ここで捨て置いても、桜の脅威にはなり得ない。けれどーー
「でも。それだけじゃ、ダメだ。姉さんは立ち上がる」
 ここで殺しておかないと、次は私が負けてしまう。
 そう確信する桜に根拠はない。魔力量という桜のアドバンテージ、そしてサーヴァントすら操る力。これらの実力差はどうあっても覆らない。それこそ、遠坂に伝わる礼装(宝石剣)が完成するほどの奇跡を凛が起こさなければ。
 けれど、次に戦えば殺されるのは自分だと、桜は確信していた。
 遠坂凛であれば、無力化した桜に必ず手を下すはずだ。だから自分もここで手を下す。
 息も浅くなった凛を見つめ、桜は再び手を掲げた。しかしその怯えと定まらない覚悟を示すように影は伸びない。向け先のない魔力が沸騰する水のように足元で渦を巻く。身体を震わせる桜に、今まで傍観に徹していたイリヤスフィールが足を動かした。このままでは凛も危ないし、桜も危ないと判断しての行動だった。
 焦れた桜が足元の影を無理やり広げる。イリヤスフィールが凛の横に立つと、遥か頭上から、ライダーに抱えられた士郎が庭へと飛び込んできた。
「桜ーー!!」
「せん、ぱい……」
 駆け込んできた士郎の視線が桜から凛へと向く。「遠坂!」桜を素通りして士郎が凛へと駆け寄る。優先順位が下がったことを明確に感じ、桜の機嫌が下がる。士郎の関心が移ったことが不愉快だった。同時に、ほら、やっぱりと自嘲する。桜を選ぶと言ったが、結局衛宮士郎は、誰か一人を選ぶことなんてできやしないのだ。守るとは言っても桜だけを見てくれない。
「なんで姉さんを庇うんですか。なんで何も言わないんですか。どうして叱らないんですか。兄さんがどうなったか見てきたのに。お姉様をどうしたのか聞いたのに」
「違う! あれは臓硯が仕組んだ」「違いません」桜は遮るように士郎の言葉を否定した。庇おうとして叱らない士郎が、何も聞かない士郎が今は苦しい。
「見てください。私、十年前から狂ってたんです」
 足元で影の小人が桜を中心にして踊る。負の感情に呼応するように、根差した影は地面を浸蝕し広がっていく。簡単に人の命を奪い肉を裂き溶かす黒い影が間桐桜なのだと示すように、桜は両手を広げた。
「私といると苦しいでしょう? どれだけ重荷なのかよく分かっています。だから先輩の前から消えないといけなかった。でも、できないんです。私にとって、嬉しいことは先輩だけだから。それに先輩だって、私から離れられない。私を選ぶと約束した以上、自分を裏切ることができないから」
 重圧を放つ影の魔力に当てられた士郎が冷や汗を流す。瞬きを忘れからからに乾いた怯えの滲む目が、桜が告げた通りに間桐桜が黒い影であると認めている。正面でそれを見た桜の、変貌し色を無くした白い顔がわずかに歪んだ後、憐憫の微笑が浮かんだ。ああ、かわいそうに。そう思ったのは衛宮士郎へだったのか、自分自身へだったのか、桜自身にももう判らなかった。もういいのだ。だって、どうせみんな殺すから。
「だから、取り込んであげます。先輩はきっと死んでしまうけど、もう苦しまないように、お姉様みたいにずっとそばにいられるようにーー!」
 影が踊る。黒い波のような影の触手が士郎へと迫る。ぱくりと口を開けた影は、けれど衛宮士郎の魔力を味わうことはなかった。
「っ、」
 遅れて揺れる薄紫髪を持つ騎兵を睨むように見上げる。影が触れる直前に士郎を抱えて逃げ出したのはライダーだ。
「これは貴女の命令です、サクラ。何があっても、衛宮士郎を守れと」
「悪い子ね、ライダー」
 低く呟いた声に逆らうように、ライダーは桜へと歩み寄る。武器を消し、敵意はないと両手を広げた姿に桜は目を眇める。「サクラーー」ライダーが語る内容は、桜にとっては街中の喧騒のようなものだった。そもそも桜を怪物(ひとり)にしないためにと言うのなら、今回の聖杯戦争が始まった時点でもう手遅れだ。そして衛宮士郎に選ばれた時点で怪物になることは決定している。
「サクラ、私は貴女をそうしないためにここにーー」続く言葉は剣が肉を裂く音と血飛沫に遮られた。耳障りだと言うように、歩くライダーの影から召喚された黒い甲冑の騎士(セイバー)がライダーを貫いていた。
「ライダー、貴女を取り込みます」
 冷えた桜の声が倒れ伏した騎兵に落ちる。「ダメだ……!」途切れかかる意識を懸命に保ちながら声を上げる士郎の姿も素通りし、桜は続けた。
「お姉様もあるからもう要らないのだけど。特別に、セイバーと同じにしてあげる」
 足元から煙が渦巻くように影が蠢く。魔力でできた肉体を捕らえようと、地面を広がる影がライダーへと這い寄ると、
「そこまでよ、サクラ。一緒に行ってあげる」
 なんてことはないように、イリヤスフィールは肩に青い翅を持った蟲を乗せ、桜の前に現れた。
「イリヤ!」
「正気ですか?」
 影が霧散する。悲痛な声で叫ぶ士郎は、既に外野だった。桜の目に士郎は映らず、イリヤスフィールもまた、同じ聖杯の器として桜を見ている。
「私が欲しいのは貴女の心臓と鍵だけ。私と来るということは、殺されても構わないということですよ」
「抵抗しても無駄でしょ。それに、決着をつけることを優先するなら、遊ぶ必要はないじゃない。だって、ここではサクラが一番強いんだし」
 それは、今までずっと日陰にいた桜に与えられた、初めての賞賛であった。
「私が、一番?」呆然と呟く桜の目に、倒れ伏して意識を失った姉の姿が映る。一番。勝者。姉さんに勝った。やっと得られたその実感に背筋が泡立つ。高揚感から体温がにわかに上がり、死人のような肌が赤みを帯びた。
「サクラが欲しい鍵はここにはないわ。間桐深夜の心臓を使わずに門を開きたいのなら、私の城まで取りに行かないと」
「いいでしょう。今は貴女の口車に乗ってあげます」
 土蔵の門が塗り替えられたように影で黒く染まっていく。もとより入り口として使われていた扉は繋がりやすいのか、門となったそこへと桜とイリヤスフィールは足を向ける。
「桜ーー!」
「……もう、私の前に来ないでください。次に先輩を前にしたら、もう、殺すしかない」
「サクラは私が連れて行くから、シロウはここまでよ。……じゃあね。今まで楽しかったよ、お兄ちゃん」
 震えが消え、駆け出そうとした士郎を止めたのはセイバーだった。
「どのようなカタチであれ、桜は聖杯を手に入れる。その結果が彼女の死であったとしても、それで彼女たち(間桐の娘たち)は救われる。ーー最後の忠告だ。それでも追ってくるのならその時こそ、その首を叩き落とす」
 呆然と立ち尽くす士郎の前でセイバーが溶けるようにして消えると、途端に悪夢から覚めたように影は引き、中庭はいつもの日常へと戻っていた。倒れたままの凛と、血を流すライダーと、二人へ続く道を遮るようにして引かれた斬撃の痕を除いて。



20220326

- 19 -

|
[戻る]




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -