マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / マキリの娘と呪いの世界
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 いつもより濃い闇が冬木の空を覆っている。刺すように冷たい夜気は、外套を手にする時間さえ与えられなかった少女を容赦無く締め上げた。
 少女ーー間桐桜は自身の腕を引く男を見上げ、何度も声を上げた。「おじさん、やめて、戻らないと、」お爺様に叱られる。また蟲蔵で責め苦に喘ぐ羽目になると。引かれた腕の強さに顔をしかめ、成人男性の足の長さと歩く速さに足を縺れさせながら何度も止めた。
「大丈夫だよ、桜ちゃん」男は決まって、壊れたレコーダーのようにそれだけを呟いた。
 吐き出す息は白い。かじかんで赤くなった小さな指先に巻きつく、屍蝋のような男の手を精一杯の力で引いた。それでも男はピクリとも動かない。ただひたすらに燃え上がる建物へと一心に向かっていく。
 遠くに見えていた黒煙が近づいて来る。逃げる車とすれ違い、救助に来たが人混みで止められた救急車を追い抜いた。
 やがて桜の頬を熱風が撫でる頃になると、街の喧騒は消え、風の吹く音と上空を飛ぶヘリの低い羽音、それからサイレンが遠く聞こえるだけとなった。いつもは賑わう完成間近の市民ホールだが、今は炎に包まれ崩落し、生きた音は聞こえない。コンクリートの崩れる音は心臓にまで響いた。
 冷たく冷えきった少女の幼い身体に、今度は焦げた臭いと熱がまとわりつく。そこに含まれる甘い腐臭に本能的な恐怖で身がすくみ小枝の足が固まる。やや引きずられると、その重さに気づいたのか、今度こそ男は止まった。
「おじさん、」
 足下には血のような闇が迫っている。波打ち際のように、潮の満ち引きのように、とぷりと揺れながら泥のような火が迫る。その煮詰めた血のような不吉な赤黒さは、桜が一年間見続けて来た死の匂いを感じさせる。もはや全てに肌が粟立った。これは……良くないものだ。
「大丈夫だよ、桜ちゃん」
 表情があるとすれば、笑っている。そんな声色だった。けれどそれはもう、少女の記憶にある穏やかな笑みとは違う間桐の血を感じさせる妄執と狂気の滲む凄絶な笑みで、決して癒ることのない壊れたものだ。
「おじさんがね、聖杯を獲ったんだ」
「ーーえ?」
 迫る泥を睨みつけていた顔を上げる。ぽかんとした表情は間抜けなものだったのだろう。それを見下ろす男は悪戯が成功したように朗らかな声を上げた。
 いつも諦観の眼差しで見上げていた男の顔は、今もやはり、思い描いた笑みもなく真顔のままだった。それもそうだ。眠らせていた魔術回路を強制的に開け、一年という短期間のうちに仕込みを行なった影響で男の半身は麻痺状態にある。もはやいつ死んでもおかしくはないほどに嬲られ痛めつけられた身体は、呼吸をするだけでも残り僅かな命を蝕むのだから。
「これで全部元に戻る。葵さんも、桜ちゃんも。もうすぐ家に戻してあげられる。聖杯さえあれば臓硯だって殺せる」
 朗々と未来を語る男の顔は蒼白を通り越して土気色をしている。御三家とされる間桐の家の落伍者。落魄れた家門を再興する機会を得ながらも、妹に責務を全て押し付けて逃げた臆病者。それが臓硯から幾度も聞かされた雁夜の評価だ。
 その男が、聖杯と獲ったと?
 それだけは絶対にあり得ないことだと、桜は断言できた。
「さぁ、桜ちゃん。おじさんと行こう。この先で願いは叶うから、ほら、早く!」
 男が一層強く桜の手を引いた。スプリンクラーからこぼれた水が溜まった床を、縺れた足で転ぶように踏む。前へと傾いだ桜の視界に映り込んだものに、少女の目が見開かれた。喉奥が一度引きつった、次の瞬間ーー
「おねえちゃん!」
 硬く凍りついた屍蝋の指を振り払い、桜は駆けた。「桜ちゃん!」男の叫ぶ声が背を叩く。怒りと苛立ちが滲むその音は時折間桐で桜に投げかけられるものとよく似ていた。反射的に止まりそうになる足を懸命に動かす。姉≠ニ慕う人から習ったばかりで一度も成功しなかった身体強化の魔術は、今は過不足なく桜の足を覆っている。
 落ちるコンクリート片を避けて風のように駆け抜ける。足下に染みて熱を生む泥の波打ち際、横たえられた身体へと近づいた。青ざめた白い肌は血か煤か見分けがつかないほどに黒く汚れている。
 桜は細く短い腕で手を伸ばした。揺らした身体は氷のように冷たい。「おねえちゃん、起きて」蟲蔵で新しい姉と共に沈んだ時、確かに死んだはずの感情が恐怖に震えている。手の甲に刻まれた令呪はすでになく、少女を守り影に潜んでいた騎士はその残滓を残して消滅した後だった。
「おねえちゃん、やだ……」
「桜ちゃん、急に走り出したら危ないじゃないか」
 辛うじて動く方の半顔が歪ませた雁夜が桜へと追いついた。
 どうしてと、震えた声で問う。どうして間桐雁夜が聖杯を獲れるというのか。間桐に来たばかりで、その殆どを蟲蔵に沈んで過ごす桜でもある程度の情報は得ている。雁夜の両の手に赤い刻印は刻まれていない。参加権を持たない雁夜では、マスターが全滅しても勝者にはなれない。
「後で見せて驚かせようと思ったんだけど、さすが桜ちゃんだね。それが、マキリの聖杯だよ」
 ーーだって、間桐家からの参加者は、雁夜ではなく妹の深夜だったのだから。
 代わりにマスターとして戦い抜いた深夜を、泥で総身を染め上げた少女を指して、雁夜は聖杯だと呼んだ。
「ちがう……ちがうよ、おじさん」
「君のおねえちゃんは、遠坂の家で待ってるだろう? あの家に君の兄姉はいないよ、桜ちゃん。あそこにいるのは化け物ばかりだ。家族と呼ぶのもおぞましい」
 男は結局、父である老魔術師の求める最低限の域にすら届かなかった。命を削る拷問のような鍛錬に肉体が保たなかったのだ。そもそも、雁夜は臓硯に逆らえばこうなるという手本として桜に与えられた教材だったのだから、当然と言えば当然だ。どれほど覚悟を決めていても、魔術は一朝一夕でどうにかなるモノではない。素養があったとしても、幼い頃から鍛錬を繰り返し作りあげるものを僅か一年足らずで実戦に足るまでに育てあげるなんて、そもそも無理な話だったのだ。
 今や雁夜の身体はその機能の殆どを移植した刻印虫で補っている。奇しくも、雁夜が厭うた臓硯と同じ方法での延命だ。雁夜が耐えきれず、臓硯が見切りを付けた時点で桜への教育も再開された。最も忌み嫌った方法で自身だけでなく愛した人の娘までもが汚されていく。それも、自身の隣で。
「おじさんの体は間に合わないけど、桜ちゃんはきっとまだ間に合うはずだ」
 動かない雁夜の肉体は、本来はすでに壊死して崩壊している。それを蟲の巣穴にすることで無理やり肉を繋ぎ止め、生かしている。
「臓硯を殺してその体を直したら、また四人でピクニックでも行こうか」
「おじさん……」
 変わらぬ表情の中、目だけが炯炯と殺意を滲ませ光っている。変わっちゃったね、という桜の言葉は届かない。聖杯を手に入れる。三百年続いたマキリの悲願を成就すれば桜の教育は不要、即刻解放するという当初の約束はすでに、雁夜は忘れていた。
 桜の身体を損なわせた、自身の身体をめちゃくちゃにした。もはや臓硯を討つことだけが雁夜にとっての桜の解放だった。
「おねえちゃん……」
 天に浮かぶ黒い太陽から泥が溢れ出る。それは真下にいる桜達目掛けて降ってくる。
 両手を掲げ、言葉にならない声で願いを捧げる雁夜の足下で、桜は祈るように深夜の冷たい手を握りしめた。



20220504

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