マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / Fate/fall butterfly
scene09

十 四 日 目
 二月十三日


 ぴちゃぴちゃと粘り気のある水音が石壁を打つ。時折啜るような濁った音がする暗い緑の闇の中央。マキリの屋敷の深奥部、蟲蔵の底で、深夜は淫虫のプールに沈み込んでいた。時折、粘膜が受け取った刺激に反応した神経が手足を跳ね上げ、虫を潰す。飛び散った体液は肌を濡らし、神経を焦らし、快楽中枢を刺激する。調整と銘打って繰り返される、教育の名を借りた陵辱だ。
 地上に建つ立派な洋館はただの張りぼてに過ぎない。緑の闇から響く水音と生臭い生き物の匂い、蠢く蟲の刃と羽音、それらを閉じ込め地に埋もれた石の棺こそ本来の姿。
 桜が出て行き、衛宮士郎を唆し、次は何をするのだったか。神経の高揚による肉体機能の亢進状態で思考する側から解けていく。聖杯戦争の最終局面が近づく中、臓硯の次の器として期待されている深夜はここ数日昼夜を問わずその蟲蔵にいた。排泄も食事もここで済むこと。時折臓硯の使いとして地上に上がる程度だ。魔力を蓄えた蟲は魔術を操るモノにとって、そこそこに良い栄養となった。
 全ては、既に門としての機能を始めた桜を最後に閉じる≠スめーー
「ぅ、ぁ……!」
 深夜が蟲の海で揺さぶられていると、突如、茫洋と宙をさまよい虚ろに石の天井を見上げていた目が見開き、理性の光が戻った。肉体ではなくもっと奥、臓器の内側をこじ開けらる感覚に深夜は群がる虫を跳ね飛ばし飛び起きる。
 最深部であり隔絶された異界でもある蟲蔵を、溺れるほどに濃密な魔力(マナ)が満たしていく。
 外に放っていた使い魔が圧力に耐えきれず潰れた。壁に掛けられたガウンを掴み冷たい石畳を駆け上がる。
 濁り腐った古い水の匂いが満ちる屋敷に、瞬間的に、噎せ返るほどの魔力が溢れた。耐性のない者は体調を崩すであろうほどのどす黒い魔力だ。それが床からも天井からも水が染み出すように空間を侵蝕していく。喉奥に泥が流し込まれたかのような閉塞感と圧迫感に、本能的に逃げ出したくなる衝動にかられる。
 足元から這い上がる恐怖をぐっと耐え、深夜がその中心地である部屋へと入った時には、そこはもう既に異界と化していた。
「さ、くら……?」
「やっぱり。お姉様が最初でしたね」
 血濡れの肉を抱えた黒いドレスの女が愉快そうに笑う。人形の肉を無理やり吊り上げたようなそれは、笑い慣れていない、表情の作り方を長く忘れていたような空っぽで歪な微笑だった。
 腕の中の肉を投げ捨てた桜は、ひたひたと足音を立てながら深夜の前へと立つ。立ち上がった拍子に打ち捨てられた肉から熟れた瓜を叩きつけたような音がした。肉にもはや面影はない。ままごとのように弄くり回されたそれはカタチもなくし、泥の熱で変質していた。まるで汁の溢れたハンバーグのようだ。それか、散々遊んで捨てられた玩具。
 跳ねた血が白いガウンを汚した。それを見た桜は一つ息を吐いて、目を閉じる。
「同じマキリの女なのに、どうしてお姉様はそんなに平気なんですか」
 疑問系ではあるが、深夜からの返事は求めていないようだった。表情の抜け落ちた顔に赤い陰が差す。
「いつだって辛くて泣いて、耐えているのは私だけ。傍にいるだけで守ってくれたことなんて一度もないのに。なのに、その温度に安心してしまう自分が嫌なんです。……ねぇ、私とこの子を飼いならして楽しかったですか? 私と同じお爺様の人形のくせに、自分なんてないくせに! どうして中途半端に優しくしたんですか!」
 桜から溢れた影へと、落とし穴に落ちるように身体が沈む。条件反射で飛び立とうとした意識ごと、粘着液で搦めとるようにして深夜は桜に捕まった。白い肌は黒く染め上げられ、赤い線が稲妻のように走る。
「お姉様はきっと、綺麗に羽化して飛び立てるんでしょうね。……でも、そんなことさせません。お姉様は、これからも私のそばにいてもらいます」
 桜を染め上げた黒い泥が触手のように深夜へと手を伸ばした。それに引っ張られるようにして、深夜としてのカタチを保ったまま、影へと仕舞い込まれるように桜から滲む影で身を染めていく。
 焼けるような熱にくらりと目眩がするが、不思議と苦痛は感じない。「それでもいい。サクラは、私の妹だもの」深夜が囁くように呟いた。影に沈みきる直前、青く輝く双眸が視線を投げると、赤く染まった目は驚くように大きく見開かれた。
 あり得ざる力を手にした高揚感は桜に一時の興奮と自信を与えたが、どうしてか長くは続かなかった。手を握ってくれる存在がいないからか。それとも信じてくれていた誰かを信じられなかった事実が突き刺さるからか。
「……嘘つき」
 姿見に映った変わり果てた自身の姿と、背後に伸びる屍を内包した巨大な黒い影を見て、桜はぽつりと声を落とした。
「桜よ」
 ずっと様子を見ていたのだろう。慎二(あに)を殺し、深夜(あね)を取り込み、血に濡れた床で立ち尽くす桜に臓硯が声をかけた。死人のように蒼白な顔を上げた桜は、虚ろな目で老魔術師を見つめる。あれほど恐ろしかった老人だが、今は妙に弱く見えた。
「その影を受け入れるがいい。もはやお前を止められる者も、手を引く者もおらぬ。お前に残されたことは、アインツベルンの娘を奪い、聖杯を手に入れること。それ以外、お前達が生きる術はない」
「ーーはい。仰せのままに、お爺様」
 ーー私じゃない人のために、わざと落ちたくせに。
 桜を見て薄く笑った血の繋がらない姉の顔が、どうしても離れなかった。


20220318

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