マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / Fate/fall butterfly
scene08

十 三 日 目
 二月十二日



 間桐邸に足を踏み入れた衛宮士郎の目の前を一匹の蝶が横切った。雪が降る中、虫が生きるには寒過ぎる冬木の冬。そして蟲を使うという間桐の、臓硯の魔術。その知識がある士郎は思わず身構えた。
 静けさに包まれたこの屋敷の夜は、音さえ吸い込みそうなほど生きた気配がしない。一度息を吐いた士郎は、手招くように誘う鮮やかな蟲の後について敷地の奥へと歩みを進めた。
 荒れ果てている遠坂の邸宅とはまた違う、寂れた陰鬱な気配の屋敷は、形だけ見れば品の良い洋館だ。切妻屋根に張り出した円筒の塔屋が左右対称に正面玄関を挟んでいる。半分木々に飲み込まれたような印象の屋敷の横を通り過ぎる。おそらくは庭であろう、木々の中を進む。連日の雪が残り水気で足元はぬかるんでいた。行き先を示すように置かれた石畳がある事でやっと道と判断できるような獣道同然の道だ。一人分の濡れた音を立たせながら足を動かす。夜に溶けるような森の先には、生い茂る草木と蔦に覆われた、古びた温室があった。開け放たれた磨り硝子のドアの奥は緑の闇が広がっている。そこへ、誘うように蝶が入っていく。
 士郎は一度喉を鳴らすと、蟲に続いて闇の中へと入った。この中に臓硯がいる。話があると言っていたが、罠かもしれない。ここは敵陣の本拠地であるという緊張感に乾いた口を引き結ぶと、食いしばった歯が軋む音がした。
 警戒をしたまま温室に足を踏み入れる。中央に立っている人影を認めると、士郎は、え、と声を漏らした。
 一人の女がいた。臓硯ではない、細い女の影だ。
 薔薇窓を思わせる天井から差し込む月明かりは磨り硝子の壁を反射し、しゃりしゃりと細やかに、けれど控えめに輝きを放つ。その薄青い光に外で感じた湿り気はない。女は、その天窓の下で天井から降り注ぐ柔らかな月光を受けている。
 無防備な女の背中は神聖と呼ぶには寒々しく、どこか濁りがあった。幽鬼のように佇む女が白く細い手を伸ばす。その指先に、士郎を招いた蟲が翅を休めた。振り返った女の貌には青く仄光るものが浮かんでいる。それが士郎をとらえた。
 月明かりに浮かぶ青い炎。熱があるはずなのに、冷たい硝子のように無機質で温度を感じない。それに、昔慎二に見せてもらったトンボの標本を思い出す。
 磔にされた虫の、青や緑と鮮やかで光沢がある目。何を見ているかわからない不気味さと宝石のような美しさ。
 ぞくりと肌が粟立つ。
「ようこそ、と言いたいけれど、使い魔もなしに一人で来たの?」
 その双眸が嵌め込まれた、人形じみた造形の白い面が横に傾ぐ。一瞬感じた怯えを振り払うと、士郎は眦を決して女へと近付いた。
「臓硯はどこだ。あいつに話があると呼ばれたから来た」
「今はいない。だから代わりに私がいるの」
「いない……?」
 士郎の肩から力が抜ける。臓硯ではないからと気を抜いた訳ではないが、この女の方がまだ話が通じると考えていた。
 女ーー間桐深夜。慎二と桜の叔母で、桜が跡を継ぐ今代の間桐の魔術師。慎二からはあまり話を聞いたことがないが、桜は慕っているのか、時折お姉様と呼んでいた。大河の後輩に当たるらしく、以前隠れるようにして桜へ様子を聞いていたのを見かけたことがある。
 桜と同じ臓硯の人形という点で信用は難しいが、桜への親愛は確かなようで、臓硯ほどの警戒は必要ないだろうというのが遠坂からの見解でもあった。
「本題に入るけど、招待を受けたのなら貴方も話があるのでしょう。安心して。聞かれたことは答えるよう命じられています」
 どこまでも事務的で、機械的なやり取りだった。これが臓硯であれば一々言葉尻を論えて士郎の感情を乱そうとしてきたであろう。
「そうか。なら話は早い。……桜を今すぐ解放しろ。俺が言うことはそれだけだ」
「……解放? まぁ、ある意味では解放とも言えるのかしら」
 士郎の言葉に女が僅かに眉根を寄せた。その表情に、士郎は不意に桜を思い出した。昔の、まだ衛宮邸でも俯いていた頃の桜だ。
「お爺さまが貴方に話したかったことは、あの影の処分について。貴方に、あの影を殺してほしいの」
「あの影はあんたらの仲間じゃないのか?」
「仲間、ね。あれと意思疎通はできないわ。私だって振り回されながら手を握るので精一杯だもの。まして、嫌われてるお爺さまだったら宥めることすらできるかどうか。今夜だって、呼び立てたくせに来れないほどだもの」
 ーーもし臓硯とあの黒い影が全くの別物だとしたら、貴方はどうするの?
 士郎の脳裏に、遠坂から投げかけられた問いが過ぎる。答えを口にできなかったその問いが今、明らかにしろと首筋に刃を当てにきた。
「あれは、言ってしまえば私たちが求める聖杯の中身。聖杯と言う門から溢れる意思。そうね、殺せと言っても、影そのものを殺すことは聖杯を解体するくらい難しい。けれど、影はまだ不完全。干渉するために通る門がなければ、あれは実体を持てない。だから、正確に指示をするのであれば、門そのものを壊して欲しいのよ」
 門を通る影という表現に、士郎の脳は具体的な想像を始めた。やめろ、と吐息のような声が漏れる。悪夢に見た見慣れた少女の首が落ちる様を想像する。
 もし、影が臓硯とは別物であれば。
 その問いで、首筋に刃を当てられたのは士郎ではない。
「お爺さまや遠坂の当主では勘付かれる。私やサーヴァントではただの餌でしょう。だからーー」
「やめろっ!」
 喉が裂かれる痛みを堪えて張り上げた声は、天窓へと吸い込まれる。
「……十年前の聖杯戦争は不完全なまま儀式を終えた。衛宮切嗣によって破壊された聖杯の破片を持ち帰ったのは私よ。まさか、蟲に変えてまで桜に移植するとは思わなかったけどね」
「どうして……」
「私はね、別に桜が羽化してもいいと思ってる。あそこまで馴染んでしまえば、もう望む望まないに関わらず助からないもの。だったら少しでも桜が生きられる方を選びたい。どうなっても、お爺さまは主導権を奪えないから」
 口調こそ柔らかさがあるが、天秤が振れた方をただ事務的に告げるような、淡々とした声だった。
「……私は衛宮切嗣と会ったことはないけれど、今までの功績は情報として知っている。もし、貴方が衛宮切嗣を継ぐつもりで桜を選ぶのなら、あなたはその夢を裏切ることになる」
「お、れは……」
「あの子は、きっと綺麗に咲くでしょうね」
 青い目が悼むように伏せられた。女の身が瞬く間に崩れ、青い鱗粉を散らせながら無数の光が羽ばたいていく。元の薄暗い廃屋へと戻った温室で、士郎は一人呆然と立ち尽くす。
 ーー臓硯とあの黒い影が全くの別物だとしたら。
 ーー間桐桜こそ、衛宮士郎の敵。
 戦いに燃えていた心が急速に冷えていく。貧血気味の頭がくらくらと目眩を起こす。けれど足取りはしっかりとしたままに、衛宮士郎は白み始めた空の下を、桜達の眠る衛宮邸へと向かい歩き始めた。



20220301

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