マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / Fate/fall butterfly
scene07

十 四 日 目
 二月十三日


 間桐深夜という命の結末は決まっている。
 十年前の冬、聖杯の泥に触れた時。その魂にはある方向性の疵がつけられた。
 それは本人にも、命令を下す主人である老魔術師にも知らぬことではあったが。

 いつだって古い水の匂いが満ちるマキリの邸宅で、瞬間的に噎せ返るほどの濃密な魔力が溢れた。喉奥に泥が流し込まれた火のような閉塞感と圧迫感。深夜がその中心地である部屋へと入った時には、そこはもう既に異界と化していた。
「さ、くら……?」
「やっぱり。初めて蟲蔵に沈んだ時も、兄さんに犯された時も、初めて人を殺した時も。最初に来てくれるのは、いつだってお姉様なんですね」
 血濡れの肉を抱えた黒いドレスの女が愉快そうに笑う。人形の肉を無理やり吊り上げたようなそれは、笑い慣れていない、表情の作り方を長く忘れていたような空っぽで歪な微笑だった。
 腕の中の肉を投げ捨てた桜は、ひたひたと足音を立てながら深夜の前へと立つ。立ち上がった拍子に打ち捨てられた肉から熟れた瓜を叩きつけたような音がした。肉にもはや面影はなく、泥の熱で変質している。まるで汁の溢れたハンバーグのようだ。それか、散々遊んで捨てられた玩具。例えば、昔三人で遊んだおままごとのようなーー
「私、ちょっとだけ恨んでるんです」
 独白をするように、桜が目を閉じる。返事は求めていない。けれど、隠してきた秘密を明かすような恥じらいを浮かべていた。
「同じマキリの女なのにどうしてお姉様はそんなに平気なんですか。周りの世界から嫌われてるのに、いつだって辛くて泣いて、耐えてるのは私だけ。傍にいるだけで守ってくれたことなんて一度もないのに、なのに、その温度に安心してしまう自分も嫌なんです。ねぇ、私とこの子を飼いならして楽しかったですか?」
 その問いに、答える時間はなかった。
 桜から溢れた影へと、落とし穴に落ちるように身体が沈む。条件反射で飛び立とうとした意識ごと、粘着液で搦めとるようにして深夜は桜に捕まった。白い肌は黒く染め上げられ、赤い線が稲妻のように走る。
「お姉様はきっと、綺麗に羽化して飛び立てるんでしょうね。……でも、そんなことさせません。お姉様は、これからも私のそばにいてもらいます」
 器が溶ける。
 熱にくらりと目眩がするが、不思議と苦痛は感じない。そのことに首を傾げた深夜の頭部がずり落ちる。「あーー」見上げた桜の背後に、黒く燃える太陽のような穴を視た。天に空いた、黒くて大きな穴。そこから滴る泥は、受け皿を求めて深夜の上へと降り注いだ。
 十年前と、同じように。
「不思議。セイバーと違って、お姉様はよく馴染みますね。乾いたスポンジか、空っぽの蛹みたい」
 心臓に縫い付けられていた一本の銀糸を引き抜いた桜は、それを躊躇なく口へと含み、喉を鳴らして飲み込んだ。腹が満ちる感覚にうっとりと目を細め、足元の蟲をぷちぷちと踏み潰しながら家へと向かう。
 その足下で、潰れた蟲がか細い声を上げた。
「ぁ……」
「へぇ……可哀想に、お姉様。痛くても辛くても、絶対に狂えないなんて。ああ、だから平気に見えたんですね。正気のまま、狂ってたんだ」
 膨大な魔力は、深夜の肉体を失っても精神だけを生かし続けた。肉を溶かしても同一個体として繭を破る蟲のように、決して狂気に落ちることのないようにという祈りは、願望機によって今なお確かに叶えられている。
 どんな目に遭っても、かの英霊が望んだ間桐深夜という少女の正常な意識のままであるとして。
「ふふ……でももう大丈夫です。私の中でゆっくり溶けて、ずっと一緒に暮らしましょう。お姉様は特別です。もうすぐ私の先輩も紹介しますから、待っててくださいね」
 黒いドレスに身を包んで嫣然と笑う。
 大事なものは、きちんと取っておかないと。誰かに盗られてしまう前に。湖に落ちた蟲が沈んでいく様を楽しげに見て、少女はくすくすと声を上げた。
 自身が融解していく感覚を声も出せずに耐える深夜は、ただ一つ遺された意識を強制的に落とそうとして、しかし回路も溶けた今足掻くこともできずにただ黒い泥の闇を見続けた。苦痛がすでに溶けた神経を焼くが、願いの強制力によって痛みに発狂することも叶わない。絶望にも落ちきれず、やがて諦念へと沈んでいった。
 定められた運命からは逃れられない。その命に刻まれた結末であればなおさらだ。
 十年前、深夜は聖杯の泥に落ちたというのに生きながらえた。それは己のサーヴァントから霊基を構築する核を譲渡されたからだが、古い神秘の水に縁のある者だったこと。汚染するモノが少なかったこと。さまざまな条件が奇跡的に重なった結果起きた異常であった。聖杯を満たす筈だった膨大な魔力(リソース)は少女の途切れた運命力へと変わり、英霊としての力を与えることとなる。
 けれどそれは、杯に落ちて死ぬという運命を先延ばしにしただけに過ぎない。
 決して逃れることのできない、古代の反英雄の呪いと願いが溶けた聖杯に溜まった泥。汚染されたそれは深夜という器を捉え、魂に一つの方向性の疵をつけた。そして、同時にサーヴァントの願いも叶えていた。

 こと殺害において、冬木の汚染された聖杯は絶対的な機能を有している。それが間桐深夜の結末を杯に落ちる<cmと定めたのだ。だから、どのような道筋を辿ったとしてもその終わりだけは必ず決まっている。
「ふふ……これなら、きっと誰にも、ねえさんにも負けないわ」
 後には、もがれた翅だけが汚穢で満ちた水の中で浮いていた。



 ーーEND
「湖に落ちた繭」


20220213

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