マキリの幻蝶 / Fate/fall butterfly
interlude T
◆
空っぽの器がまだ、何にも満たされていない頃のことである。
間桐深夜は間桐が生んだ最高傑作だ。
量こそ全盛期の臓硯には程遠いが、翅を広げたような回路はマキリに相応しく、容れ物である肉体も繭のように白く美しい造形をしている。蟲による魔力精製の総量はたかが知れているが、深夜という女王に隷属する数多の蟲達が外から得た魔力を主人に運ぶため、外の生命が滅びない限り餌に困ることもない。魔眼ほどの特性はないが、浄眼の一種とされる妖精眼も保有していた。
けれど、彼女の特異性はそれではない。何よりも、蟲に肉も魂も蝕まれる苦痛を、苦痛として認識していないことだった。そういった類稀なる蟲との親和性は、肉を喰らい、魂の記憶に依って肉の身体を構築している臓硯にとってこれ以上ないほどに適した器であった。
間桐深夜に、禅譲の血統である桜。この娘二人がいれば間桐の衰退は覆せる。次回、もしくはその次で、間桐の願望は杯に届く。
だが、それでも。魔術師としての間桐はどうしたって鶴野の代で終わっていた。
間桐深夜は、子が望めない。
文字通り人形同然の身体であった。決して羽化することのない死んだ蛹であり、死ぬ間際の虫が一際強く羽ばたくような、燃え尽きる炎がその寸前に燃え上がるような、そんな瞬きの奇跡のような存在。
深夜は、真の後継者としては扱われていない。あくまでも桜への繋ぎとして存在している。いずれ、この身体が正しく使われるその時まで。
次代に続けない娘に回路が失われた孫。残されたのは外から迎えた血統。ついに間桐の血筋は今代で途絶える。
それでも、蓄積された秘跡と知識の結晶は遺されていた。屋敷の中でも奥まった箇所に位置し、それらしく誂えられているのは、屋敷の構造とは似つかない簡素でシンプルな書斎だ。そこにマキリが蓄えてきた膨大な量の魔道具や魔道書、魔術の論文が眠っている。
まるで、撒き餌のように。
それらは全て、マキリの血筋では使いようのないものばかりだった。譲られたものであろう、屋敷にそぐわない煌びやかな宝石灯や銀細工の水盆に魔術で編まれた白絹。それから部屋を埋め尽くす程の書物。膨大な知識を刻んでいるその多くは、マキリの魔術の継承方法が肉体に直接刻み込むモノへと変わってから必要のなくなったものだ。そういった、捨てるにも処理に困ったガラクタばかりが集められていた。
ーーそう、この部屋にあるのはガラクタばかりだ。
「慎二、またここにいたの?」
「おばさま!」
声の主を認識した途端に顔を綻ばせた少年ーー間桐慎二は、身に余る大きさの古書を床に置くと、ぱたぱたと足音を立たせて深夜へと駆け寄った。
彼こそ間桐の当主の息子。正統なる後継者になるはずだった少年だ。興奮に頬を染め、深夜の手を引いて奥へと連れていく。書棚を過ぎ、積み重なった大きな本を横切ると、いくつかの魔道書と指南書、和訳辞典が扇状に広がっていた。そ中央に、ぽっかりと穴が空いている。
ちょうど子供が一人座っていたような隙間の目の前には、白いコピー紙と鉛筆が転がっていた。落書きと呼ぶには丁寧に描かれた魔法陣とその解析式。横には懸命に辞書を引いたのだろう、いくつかの訳が丸い文字で記してあった。
「見てよ! この式、この部分を変えたらきっと使えると思うんだ!」
弾んだ声で、けれど外には聞こえないよう潜めた声で少年が囁く。少年は血の繋がった叔母であり、自身にはない魔力回路がある深夜のことを、いつも憧憬の眼差しで見ていた。屋敷にやってきたばかりの、新たな妹である桜への憐憫と優越に満ちた目とは真逆のそれは、自分こそが臓硯、ひいては深夜の後継者だと語っている。
間桐慎二は深夜の次が己であることを疑っていない。深夜は、一度も少年に後継者へと接するように魔術を説いたことはないけれど。
「その式では成り立たない。これは降霊術の陣で、今当てはめているそれは召喚式。この並びだとただイコールを二つ並べただけで何も起きないし、下手をすれば行き場を無くした魔力が暴発し……」
つらつらと語った深夜は、けれど途中ではっとしたように慎二を見下ろした。聞かれたから答えてしまったが、今になって適当に相手をしろという、兄であり現当主の鶴野からの言いつけを思い出したのだ。けれど、慎二は急に口を閉ざした深夜を変に思うこともなく、むしろ一層藍色の眼を輝かせた。「ーーすごい!」慎二は声を潜めていたことも忘れて飛び上がる。
「見ただけでわかるわかるなんて、やっぱりおばさまは凄いなぁ!」
僕ももっと学ばないと、と古い魔道書を抱きしめた慎二が独り言のように呟いた。
どうして身につかない魔導を覚え続けるのか。口を衝いて出そうになった言葉を飲み込む。
この書斎が間桐の全てだと思っている慎二は、いつか決定的な挫折をすることになるだろう。間桐の真の後継者は養子の子供である。彼女が産んだ子か、孫の代で間桐は必ず悲願へと手が届く。それほどの逸材であった。だから、深夜は決して子へと魔導を遺すこともなく、慎二もまた間桐の魔術に触れることもない。
臓硯が作り上げた魔術工房は、こんな風に穏やかな日差しの中でのどかな時間が過ぎるものではない。腐臭と水気の臭いが立ち上る、深海よりもなお暗い緑の闇。時間さえ忘れるほどの蟲の声に満ちているそこは、地下深くに秘匿された墓穴であり、蟲の巣だ。
ーーだから、ここはガラクタばかり集められた部屋なのだ。
この部屋にしかいられない慎二も、そうと分かって訪れる深夜も、二人とも同じあってもなくても構わないモノ。
いつか、そう遠くないうちに真実を知ることになるのだろう。きらきらと星を映した藍色の瞳を、深夜はそっと手で覆い隠した。
interlude out
20220124
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