マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / Fate/fall butterfly
scene05


九 日 目
 二月八日


 冷たい冬の雨が窓を叩く。見たくない汚れに蓋をするように沈ませていた間桐桜の意識は持ち上がり、外からの刺激が神経を伝う。チクタクと鳴る針の音は聞こえなかったが、金属と硬い陶器がぶつかる不快な音に目を開いた。
 ーーああ、生き延びてしまった。
 幾分か軽くなった肉体。大切な人(先輩)を傷つけた記憶。秘密を知られたことへの羞恥が、雪のように降り積もり、けれど溶けることもなく心に残り、桜を浸す。そうして凍りついたまま、もう誰へと向ければいいかもわからない羨望嫉妬罪悪感と混ざって桜に重くのしかかるのだ。
「気がついたか、間桐桜」
 茫とした表情の桜の顔を神父が覗き込み、小さなライトを目の前で往復させた。その眩さに目を眇め顔を背ける。「ーー結構」男は無表情のまま鼻を一つ鳴らすと、桜が横たわる処置台から背を向けてすぐ横の木製のデスクへと腰をかけた。
 さらさらと何かを記入しているペン先の音が、静けさに吸い込まれていく。
「早く着替えたまえ。裸では逃げることもできないだろう」
「……逃がしてくれるんですか?」
 予想だにしない言葉に、桜は目を瞬かせた。てっきりどこかへと送られるのだと思ったのだ。本来自分は、マキリとは異なり、そしてどこを探しても珍しい属性を持っているから、魔術師(マキリ)の家の庇護がなければホルマリン漬けにされると教えられている。そうでなくとも、いずれ破裂する爆弾である自覚が既に桜にはあった。そうなった桜を、必ずそうなる魔術師(間桐桜)を、きっと遠坂先輩(姉さん)は見逃さない。
「どうするかは君の自由だ。私は助けただけだからな、その後の選択まで決められることではない。……しかし、助けた手前死なれては、ただの骨折り損ではある。だから君にはまだ残っていて欲しいとは思うがね」
「……まだ?」
 含みのある神父の言葉に首を傾げると、不意に窓から一匹の蟲が入り込んで来た。「さて、迎えが来たようだ」神父は温度の無い目で教会への侵入者を見る。
 蟲は大ぶりな翅を懸命に動かし上下しながら桜の下へと飛んで来ると、伸ばされた指先で翅を休ませた。
 蝋燭の灯りできらきらと青い光沢を放つ、夢のように幻想的な蟲。マキリの家でこの蟲を好んで使う人物は限られている。それに、初めはそもそもこんな見栄えの良い蟲ではなかった。マキリの当代の魔術師、間桐深夜が暗闇に蠢く蟲を怖がる桜のために翅刃虫を改良したものだ。今やそれは間桐臓硯の娘である彼女を象徴する使い魔となっている。
 蟲は指先から飛び立つと、桜の周囲をぐるりと回り、再び窓の方へと飛んで行く。まるで帰ろうと誘うかのような仕草に鼻の奥が痛んだ。
「……お姉様」
「間桐桜。もし彼らの選択が気になるというなら、ここで待っているがいい。何故かこの部屋だけは、礼拝堂の音が筒抜けになる造りになっている」
 そう告げて出て行った神父を見送る桜の肩に、舞い戻って来た蟲はそっと留まった。

×××

 窓硝子を割ってひた走る。桜を先導するように飛ぶ蟲は青い鱗粉を散らしながら道を示す。その後を、水溜りを跳ねさせながら桜は続いていた。誰かを避けるようにして道を何度も曲がり、坂を下りて行く。
 冷たい雨は容赦無く身体を濡らし、刻々と体温と気力を奪っていく。息を荒げ、明らかに熱のある顔で走る桜の横を、見回りの警察官が素通りした。蟲に人避けの暗示がかかっているのだろう。傘もなく夜更けに走る制服姿の少女を気に留める人は誰もいなかった。
 途中で銀の髪や姉に名を呼ばれている声を過ぎた気もしたが、桜の目には青い光しか見えなかった。
 そうして走るうちに、新都へと続く橋までたどり着いた。そこから下にあるレンガで舗装された道を歩く。もう走る体力は残っていない。街灯が明滅するベンチに崩れるように手をついた桜の頭上を、不意に影が覆った。「ーー桜」街灯を反射する青い光沢。西洋人形を思わせる白い貌に嵌め込まれた硝子玉に息を飲んだ。
 暖かなストールを肩にかけられて、桜はようやく息を吐いた。「おねえ、さま」逃げ出したのは己だというのに、望んだ人間ではないことへの落胆と、そう感じたことへの罪悪感が胸に広がった。
「どうして……」
「慎二もお爺様も桜が後継だって言ってたから、桜は私のイモウトで弟子だ。なら、迎えに来るのは当たり前だよ」
 姉のように思えと臓硯に言われたから姉と呼んでいる訳ではない。戸籍上の桜の叔母。あの蟲蔵から桜を救ってはくれなかったが、ずっと手を握り寄り添って、助けを求めた声に応えてくれたたった一人の人だった。
 いつだって、桜の声が最初に届くのは、この女魔術師なのだ。
「でも、私に帰る場所なんて……」
「間桐の家には、もう戻らない方が良い」
 深夜の言う通り、たとえ当代の魔術師である彼女が桜に好意的でも、桜を支配している魔術師は間桐の当主である臓硯で、深夜ですら同じ状態である。桜より抵抗力があるとは言え何が変わる訳でもない。間桐深夜では間桐桜を助けられない。
 ーー命を握っている臓硯がいる限り、桜は操り人形よ。
 冷静な姉の声が脳裏に蘇る。その通りだった。間桐の女は臓硯からは逃れられない。「けどーー」沈む桜の思考を遮るように、深夜が続けた。
「桜が帰る家は、間桐だけじゃないでしょう?」
「ぁ、」
 咄嗟に浮かんだのは通い慣れた古い武家屋敷だ。「大丈夫」そう言った無表情の白い貌に笑みが浮かぶ。花が綻ぶようなそれは一瞬の事で、見間違いかと桜が瞬きをすると、もういつもの無表情へと戻っていた。
「お姉様、それは」
「桜ーー!」
「っ来ないでください!」
 ーー俺は桜のために戻ってきた。
 真っ先に思い出すのは教会でのやり取りだった。罪悪感と羞恥心から震える声で、雨音に響く靴音へ向かって叫んだ。
 少年の頭上には桜と同じように、仄青く光る蟲が道案内をするかのように飛んでいる。それを確認した深夜は己と桜を隠す傘を少し傾けると、口の片端を上げ、そのまま一度桜を見て、挑戦的に目を細めた。その皮肉気な表情は慎二か、臓硯に似た仕草だった。
「お前ーー臓硯の仲間か! 桜をどうするつもりだ!」
 肩を怒らせ、足音荒く近づく少年に桜の肩が跳ねた。激情に駆られた勢いで走る少年の一歩よりも速く象牙のような白い指先が宙を滑り、細く華奢な足は地を蹴る。途端、青い翅の蟲は深夜の背後で半透明の壁となり少年から桜の姿を遮らせた。
「ーーっ!」
 ロングスカートの裾を翅のように翻し少年の眼前へと移動する。目で追いつかない、瞬間移動のような速さに前へつんのめるようにして少年が止まる。傘で街灯の明かりが遮られる。青く底光りする両目が、陰から少年の顔をじっと覗いている。心の奥底まで見透かされそうな光は、まるで蟲の複眼のように感情が読めない。
 柳洞寺や学校でライダーを前にした時のような威圧感。少年の肌に冷や汗が流れた。凍てつく雨の寒さとも違う、冷たい水が蛇のように身体を這い回り、首をゆっくりと絞められているような錯覚に陥る。
「衛宮士郎。桜を助けるということは、これからのあの子の命の責任を持つということよ」
「……分かってる」
「誰の犠牲も出さないということは、桜が他人を傷つけるのは、お前が最初で最後ということになる」
「ーー、」
「それを理解しても尚、桜の手を取るというのならーー」
 耳元で囁かれた声に、少年の目に火が灯る。深夜は薄く笑みを浮かべると、口の中で呪文を紡ぐ。次の瞬間には、もう半透明の壁は雨に溶けるようにして消えていた。少年と桜の目がかち合う。「桜ーー」その強い眼差しに、桜は前でかき抱いたストールをきつく握ると下を向いた。
「イモウトを、お願いね」
 ふわりとその身を蟲へと変える。と、手にしていた傘が落ちた。
 雨空に消える蟲を追うように見上げた少女が手を伸ばす。その濡れた身体に、少年が走り寄った。
 ーー最期まで、きちんと見ていなさい。落ちた水滴のようなその声は、少年の耳の奥でいつまでも響いていた。



20220111
修正20220111
修正20220124

- 10 -

|
[戻る]




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -