マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / Fate/Another zero
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昏い闇の中で蟲が騒めく。間桐本邸の地下に作られている蟲蔵まで聞こえる幼子の泣き声に反応した蟲達が、柔く瑞々しい子供の肉を喰みたいと顎を鳴らした。
臓硯が一つ杖を打ち付けると、途端にきちきちと鳴く音は止み、蔵には再び濡れた音と蟲の蠢く音だけが響く。
眼下では夥しいほどの蟲が蠢く蔵へと身を沈めている子供が、その波に合わせてゆらゆらと揺れている。水と蟲の体液が混ざった嗅ぎ慣れた匂いに、鉄臭いものが混じっていないことに気が付きわずかに感嘆の息がこぼれた。
自身を嬲る蟲から魔力を得ているのか、回路が活発に反応し、濃密な魔力を宿した双眸が爛々と輝いている。
この歳で無駄に肉を食わせず、まして魔力を供給させるまでに至った最高傑作。器としても申し分ない出来栄えに、満足気に嗤った臓硯はもう二つ、石畳に杖を打ち付けた。

「深夜、そろそろ終いとするか」
「はい。お父様」

臓硯の自信作――深夜と呼ばれた少女の返事と同時に、溢れるほど群がっていた蟲達が蔵の底へと隠れていく。
冷たい蔵の床にぺたりと座り込んだ少女の、仄青く光る瞳が徐々に暗くなり、無機質な錆のような赤色へと戻る。体液で塗れた幼い肢体に浮かぶ翅のような文様と赤く途切れた紋が、羽織った白いガウンに隠された。

「ふむ。意識の分離は問題ないようだな。刻印も馴染んできておる」

じっと臓硯を見上げる瞳はここを見ているようで視ていない。光のない瞳の茫洋とした眼差しは夢遊病者のそれと似ている。

間桐深夜に、自発的な意思と呼べるものは残っていない。もしかすると、初めからなかったのではというほど、自我が薄かった。人としての成長は望まれず、ただ蟲使いとしての成長だけを求められた生粋のマキリの魔術師。この屋敷に生まれ落ちたその瞬間から臓硯の次の器か次代の胎盤となるべく支配下に置いていた、出奔した息子の代用品として誂えた娘は、禅譲には劣るものの手頃な割に優秀な母体を用意できたこと、久しぶりに臓硯が手ずから整えたこともあって想像以上の出来上がりを見せ始めた。
生後すぐに蟲の産湯に浸けられ、植え付けられた刻印虫による濃厚な間桐の魔力に浸されてもなお、泣かず平然と笑っているような赤子が普通であるはずがない。

だからだろうか、深夜は通常の食事だけでは腹が空くようになり、自ら蟲蔵に入るようになっていた。そうすれば、蟲達が腹を満たしてくれることを学習したからだ。そうして次第に臓硯が手ずから間桐の神秘を教えるようになり、一部刻印を移植するまでに至った。既に腐りかけていた刻印だが、昔の伝手を使い修復し深夜の身体へ移植すると、不思議とかつての輝きを取り戻しつつあった。

臓硯の見立てでは、蟲の使役こそまだ父たる臓硯には及ばないが、それも刻印が馴染み回路が落ち着けば時期に超えることだろう。質こそ全盛期の臓硯どころかいずれ生まれる遠坂の子にも劣るだろうが、回路そのものは翅を広げた蝶のような見事な文様を描いている。操蟲に長けた間桐らしい回路は、次の当主の器として申し分ない。それだけでなく、深夜は教育と称した蟲による陵辱も特段苦と思う様子を見せなかった。
臓硯ですら味わった、生きたまま蟲に侵される苦しみを深夜は苦とも感じていない。
臓硯が仕込んだ特別な人形、深夜にとって蟲達は本体たる己に養分を運ぶ手足であり、意識を分け与えた分身であり触覚だ。余分な感情を持たない蟲達は本体たる深夜が望めば、本能のままに大人しく吸収される。それは体内に植え付けられた刻印虫も同じだった。
生まれながらにして人の姿をした蟲の娘。痛みも苦しみも感じない、マキリに馴染む器。
とん、と心の臓が動く、骨が浮いた薄い皮膚を指で刺す。その下に埋めた白銀の糸に思いを馳せた。

「奥に閉ざしたそれが目覚めるのが先か、儂が乗り換えるのが先か」

第四次聖杯戦争が始まるまで、後六年。
呵々、と嗤った老人の影もまた、蟲の形をしていた。





初恋の人の娘を救わんと、二度と戻らないことを誓った実家の敷居を跨いだ雁夜を迎えたのは、人形めいた美貌の虚ろな目をした子供だった。蝋のように白い貌に埋め込まれている、生気のない赤くくすんだガラス玉のような目が、まるで昆虫が人を見るように雁夜を見上げていた。

「君が……」

雁夜が本邸に戻る前。絶縁状態にあった兄鶴野から自身が出奔して数年後に臓硯が連れてきた少女については聞いていた。
雁夜が出て行ってから生まれたらしい少女は、ある日突然臓硯が連れてきたそうだ。臓硯曰く、鶴野と雁夜の年の離れた妹。いっそ、兄弟のどちらかがかなり若くして産ませた娘と言っても差し支えないくらいの年の差ではあるが。
鶴野が少女について話すその目は、まるでお前が逃げたからだと責めるようだった。
何せ、少女は臓硯が待ち望んだ魔術師として優秀な子供だったのだから、当然ではある。

「兄さん」

風が抜けるようなか細い声に、雁夜は意識を目の前の少女に戻した。間桐のおぞましさに背筋が凍り、罪悪感に胸が締め付けられた。この娘もまた、自分が選択を間違えたことで押し付けてしまった子供。出奔した雁夜にとって、深夜は臓硯以上に会いたくないと思った人物でもある。

「兄さん。初めまして」
「……ああ、初めまして」

抑揚のない、感情が伴わない自動音声のような声だと雁夜は思った。
つとめて自然に目をそらした雁夜は、桜を助けに行くため深夜の横をすり抜ける。今の自分では、二人も救えない。どのみち遠坂桜と違い、彼女は紛れもなく間桐の血統である。
おぞましい魔術に浸っているマキリの人間は救えない。だが、まだ日の浅い桜であれば、きっと助け出せる。雁夜はそう信じて臓硯がいるであろう部屋へと足を早めた。





深夜は途方に暮れていた。
隣で泣き叫ぶ新しい妹が、何故ああも苦しみ喘ぐのか理解できない。正確には兄鶴野の養女のため義理の姪に当たるが、臓硯からは妹と思えば良いと言われていたので妹と思っている。シンジとは違う幼い妹を、深夜は臓硯が思っているより気に入っていた。

その深夜と新しい妹が共に蟲蔵に入りすでに三日が経っていた。妹は間桐の胎盤としての教育をするために蟲蔵に入るのだと深夜は聞いている。
本来なら、母胎としてより優秀な妹が現れた時点で深夜の間桐の胎盤としての教育は切り上げられ、本格的に後継者――マキリの魔術師としての修行に移行する予定だった。
しかし、蟲蔵は人間の適正生活環境と比べるとはるかに暗く冷たい。生家では姉妹だったというその妹が寂しくないようにという深夜なりの配慮から、付き添うように蟲蔵に入っている。そうして三日三晩、深夜は妹の絶望の声を首を傾げながら聞いていた。

深夜の自我は閉ざされ分散し残されていなかったが、数多の蟲に転移させた意識の大本、蟲を統べる本体としての自我は残されている。深夜にとって蟲蔵に入ることは食卓の席に着くことと同じだが、新しい妹は明確な嫌悪と助けを求める声を上げている。ただ食事をすることに、どうして忌避感を抱くのか。
「たすけて……おねえちゃん」

弟妹は守るもの。臓硯が人間性の乏しい深夜へ度々そう語りかけていたのを、深夜は覚えていた。
だから、その言葉を引き金に、深夜は全身の回路を励起させた。





間桐邸で魔術的に最も安全な場所はここ、暗い蟲蔵の底に当たる。
遠坂の本邸には劣るが、霊脈に近く、地下水も流れるここはマキリの魔術に満ちていた。他所の使い魔が入ろうものなら、たちまち蟲が群がり、飛ばした意識すら絡めんとばかりに食らいつくしてしまう。
その蟲蔵で、いつものように食事をしていた深夜の元に一騎のサーヴァントが現れた。魔力を与える代わりに身体を貪り、刺激された快楽中枢によって分泌された体液を啜る蟲達を、殺しまではせずともその黒い魔力放出で一掃し、赤く底光る兜で深夜を見下ろした。

「……雁夜兄さんは?」
「aaaaarrrrrrrr、」

食事を邪魔された深夜が、些か苛立ったように巨体を見上げる。
怯えなど一滴も滲むことのない、黒い靄を纏うサーヴァントを見上げる伽藍堂の赤いガラス玉に、男の狂気に曇っていた思考が僅かに薄らいだ。
記憶の彼方、恥辱に塗れた栄光の奥底へ沈んでしまった、今は遠き幸福を願い愛を捧げた貴い面影が重なる。

「g――」

涙で濡れた、白く美しい顔。
――何も映さない、幼く美しい顔。
いつだってあの御方は泣いていた。
――いつだってこの子は泣きもしなかった。
よく似た貌の、全く似ない表情が重なり混じり、溶けていく。
復讐の怨嗟に呼ばれ召喚された時から、目が離せなかった少女。

「――Guine、vere」

大きな目を和らげて、王妃が微笑む。救えなかった女性。愛してはならなかった、愛しい王の妃。
記憶と思考に溢れる呪詛と怨嗟の奥、ずっと見ていたかつての有りし日が蘇るようで、その黒い甲冑兜のサーヴァントはそうすることが自然であるように、冷たい蟲蔵の濡れた石畳へと膝をつき、深夜に傅いた。そしてここが宮殿の花畑であるかのように、手を差し出す。
雑音と雑念が混じったその音を正確に拾った深夜が、何と答えるべきか僅かに逡巡し、その手を取った。

「――サー・ランスロット卿」

応えるように男が深夜を抱き上げ、一気に扉まで跳躍する。
驚き思わず冷たい甲冑にしがみ付いた深夜に、獣の呻き声のような低音が降り注いだ。
肌にまとわりつく黒い靄から水気を帯びた魔力が僅かに浸透し、深夜の胎を潤す。
違うと言う声は、昏い淀みに消えていった。


その日以来、雁夜のサーヴァントは何かと深夜に付き纏うようになった。雁夜のことはマスターとして認識しているようで、負担をかけないよう霊体化しての付き纏いではあるが。
ただ後ろからじっと見ているだけなら良かったが、深夜が蟲蔵に入ろうとすると、突然実体化して邪魔をしてきた。サーヴァントにとっては虫けら一匹でも、深夜達マキリの魔術師にとっては自分の分身であり、また外付けされた魔力回路である。いくらでも増やせるとは言え、無闇矢鱈と潰されるのは困る。
だからこうして、腹を空かせてもただ張った湧き水に身を沈めるしか満たす方法がなくなってしまった。
だと言うのに。

「――Guine、」
「蟲蔵には入っていないでしょう」

透き通る冷たい湧き水に浮かぶ体を、じっと見下ろす赤黒い光に向かって言葉を投げた。
今夜は一戦交える気配がしたため、雁夜は蟲蔵で調整し、雁夜の監視を任された深夜も、分散させた意識を戻して地下の水溜めで休息をしている。いつもよりはっきりと感じる自我は、見下ろす男への苛立ちを抱いていた。
雁夜が早い段階で生命力も失えば、その分の負担は全て深夜に回ってくる。いくら炉心が上等だろうと、抜け出すための出口が狭ければ壊されてしまう。場合によっては深夜の身体も無事では済まない。だからこそ、こうして万全で挑むために準備をしていると言うのに。
小さな水音を立たせ、立ち上がった深夜が男を見上げる。

「今晩から聖杯戦争は始まる。お前のマスターは死にやすいのだから、無駄な消費は控えなさい。バーサーカー」

雁夜を侵す蟲は父たる臓硯のものだけではない。深夜は臓硯の人形であるが、紛れもなくマキリの魔術師でもあった。だから令呪はなくとも、潜ませた自身の蟲を通して命ずれば多少の命令は可能だ。臓硯だってそれを見越して、深夜の介入を黙認している。
水に濡れ、白い襦袢が透ける深夜の身体に薄っすらと翅のような紋様が浮き上がった。離れた自身の分身から無理やり回路にねじ込み、魔力を絞り命令を乗せるが、僅かに身じろぎしただけでバーサーカーはじっと深夜を見下ろしている。
従う様子のないサーヴァントに眉根を寄せた深夜へ、男は靄に隠れた腕を差し出した。
首を傾げた深夜がそれを覗き込むと、深夜が時折意識を移していた蟲の一匹が握られている。黒く染まり赤い線が走るその蟲は見るからに目の前のサーヴァントの力で汚染されていたが、同時に破格の魔力も蓄えていた。
どう見てもマスターである雁夜へ捧げた方が自身の為にもなるだろうに、このサーヴァントは愛した王妃と深夜を重ねている節があり、深夜のことばかり気にかけている。

「宝具……?いや、スキルか」

意識を移そうにも弾かれる蟲に、瞳に宿る回路に魔力を流し検分していると、不意にバーサーカーが手を離した。
逃げようと仰け反った深夜の手を男が掴み、水溜めの淵に固定させた。

「っ……!」

蟲が深夜に飛びかかる。開いた衿から肌を這い、身体をこじ開けて胎へと侵入した。
神経が刺激され、背筋が震える。崩れた足を支えるように、男の冷たい甲冑が腰を支えた。慌てて意識を分散させ遮断しようにも、掴まれた腕と白くなる思考に上手く魔術が使えない。

「っ、バーサーカー……!!」

活性化する回路に、深夜の瞳が炯々と青い燐光を纏い始める。白む意識に、諦めたように硬い身体に身を委ねた。





倉庫街での乱戦から一夜明け、深夜は腕に蠢く幼虫にも似た、渦巻く流水のような紋を刻まれていた。
サーヴァントを縛る令呪のシステムを築いた間桐の祖にとって、令呪を一画増やす程度やサーヴァントの骸からサーヴァントを新たに召喚する程度、一度システムが動いてしまっていれば介入するのは造作もない。
間桐深夜が使い物にならなくなった時、その場でサーヴァントを繋ぎ止めておくだけの要石として、深夜には擬似令呪が刻まれた蟲が与えられている。それでも、一度限りの擬似令呪では、狂戦士のサーヴァントをどこまで操縦でき騙せるかが不確定だった。

「狂化していても伝承通りのサーヴァントでした」

聖遺物を用意した臓硯は、深夜にすら雁夜が呼んだ狂戦士の真名を知らせていない。それでも「アーサー」を憎み「ギネヴィア」に反応すれば、自ずと対象は絞られたが。

「それにあのサーヴァント。ギネヴィアと、私を呼びました」
「ふむ。お主に混じる水の魔力はそれが原因か」

雁夜が沈む蟲蔵を見下ろす臓硯の、視線を寄こさずに吐き出されたそれは、僅かな愉悦が混じっていた。

「どうだ、古き島国の湖の味は」
「……特段、なんとも」

胎を満たす冷たい水気を帯びた魔力は、深夜によく馴染んでいた。




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