マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / 夜想聖杯奇譚
序章
*序章/intro.
いつものように緊急で呼び出された藤丸は、迎えに来たマシュと共に管制室へと入室した。扉の中ではシオンとリトル・ダヴィンチ、そして新所長のゴルドルフがモニターを見上げながら話し合っている。
「マシュ・キリエライト。マスター藤丸立香と共に召集に応じました! おはようございます!」
「おはよう、みんな」
元気なマシュに続くと、待っていたよ、と幼い声が二人を出迎える。いつもより硬い声色に藤丸が首を傾げていると、シオンがモニターのある箇所を指差した。
「早速だけど緊急事態なの。サーヴァントの霊基反応が突然一体消失しました」
「えっ!?」
特異点かと質問するマシュに、リトル・ダヴィンチが頷く。「ホームズが聖杯反応を確認してる」
「消失する直前の一瞬だがね」
ダヴィンチ達は残った霊基グラフから再召喚を試みたが、何の反応なかった。一騎のサーヴァントと言えど、今のノウム・カルデアにとっては貴重な戦力である。
「退去とも違うようでね、まるで何かに吸い込まれたみたいになくなったんだ」「監視モニターでも消失が確認できてる。いつだったかの特異点でも似たようなことが」
大事な部分を置き去りにして話が進んでいく。いない誰かに気がつきそうになった藤丸は、頭を空っぽにして声をあげた。
「あの! それでいなくなったのはいったい……」
シオンが言いにくそうに視線を逸らす。ダヴィンチは困ったような笑みを浮かべると、
「デミサーヴァント、ミヤ・マトウ。君の二人目の契約サーヴァントだ」
藤丸とマシュが誰よりも見慣れた藍色が消える瞬間が、モニターに映し出された。
「深夜さん、が」
バーサーカーのデミサーヴァント。マシュが藤丸の盾なら、彼女は二人の剣だった。
なにより、南極で凍りついたままであるカルデアを、いなくなってしまったあの人を記憶している、藤丸にとっては大切な友人でもあった。
◇
「呪術師を辞める? 傑お前、マジで言ってる?」
「……十年だ」
五条が息を呑む。忘れたように振る舞っていたからあえて触れたことはなかった。
十年。
それは夏油が非呪術師を皆殺しにする計画を立ててから今に至るまでの年数だ。
当時、その選択は呪術界で起きた騒動のおかげで幸いにも先送りとなり、現在まで有耶無耶のままになっていた。
共に強く聡い、決して腐り落ちることのない術師を育てることを共通の目標とし、卒業後も呪術高専に留まることを選んでからは考えを改めたと思っていた。
「驚くことじゃないだろう、悟」
忘れてなどいなかったのだ。十年前、失われたタイミングから今までずっと、選択するべき時ではなかっただけで。
ずっと忘れることなく抱えたまま、夏油はその時を待っていたのだ。
「十年待った。それでも非呪術師は傲慢に呪いを振り撒くばかりで、我々の仲間は犠牲になり続けている」
「……美々子と奈々子はどうするつもりだ。お前が呪詛師になるなら、あの子達は間違いなく着いていく」
「あの子達はもう大人だ。自分の道は、自分で決められるさ」
十年前に訪れなかった選択の時が、再び巡って来た。
◇
残留魔力、空間濃度、地脈との距離。様々な視点からのアプローチと時代を遡ったシミュレーション結果を見ながら、シオンは神妙な面持ちで藤丸へと告げた。
「間違いありません。この地で一度、確実に聖杯は起動しています」
「それじゃあここが、並行世界の深夜さんがいる世界……?」
◇
「この世界はある意味、聖杯によって繋げられたIFの世界だ。先細り選定されるところを聖杯という栄養によって、本来の歴史として導かれるよう誰かが聖杯に願った=v
驚く周囲をよそにただ一人、五条のみがそうだろうとその美しい容貌に影を落とした。その結論を、五条はずっと気がついていた。
ーーミヤ? そんな生徒いたか?
彼女を目で追い、僅かな言葉に心を揺らす。五条の脳裏に様々なかつての親友の姿が浮かんでは消えていく。
そうして穏やかに箱庭で育まれた小さな恋の芽。咲くことなく枯れてしまうとしても、五条はその尊く眩いものを大切に見守っていた。
御三家の当主であり呪術界の至宝である自分には、きっと得られる筈のないものだったから。
ーー傑を、お願いね。
言われずともわかっている。唯一並び合える無二の親友なのだから。
遠い記憶の中に今も静かに白貌が咲く。
反転術式で常に再生され続ける五条の脳は、この世界を最も正しい形で記憶している。だから彼女の存在を、遺した言葉を、ひと時も忘れたことはないけれど。
夏油と家入、そして彼女。五条にとってかけがえのない青い春の象徴。通り過ぎた夢の欠片。もう一人の大切な友人。
路傍の石でもなく、コンクリートの隙間の花でもなく。胸の奥にひっそりと抱えた大切な宝物だったからこそ、五条はただ一人気づいていた。
その身に刻まれた術式に。
その心臓が齎す呪いに。
夏油傑が呪詛師へと転落する未来を先送りにする代わりに世界へと解けた名もなき英雄。
世界が「間桐深夜」という存在を無くそうとしていても、彼だけはずっと彼女のことを知っていた。
◇
「ごめんなさい、リツカ。私は私のユメのために、自分の意志で天を目指します」
◇
マシュの防御に守られた五条の一撃が、黒いサーヴァントにようやく届いた。
頭部を覆っていた黒い兜が衝撃でひび割れ、サラサラと魔力へ解け、覆っていた黒い靄状の魔力が晴れていく。それでもまだ戦える様子のサーヴァントに、五条は密かに背後のマシュ・キリエライトと藤丸立香を盗み見た。
彼女達もここへ来ての連戦に少しづつ消耗している。別働隊として動いていた彼女の仲間がここへ戻るのはまだ少し先にだ。
いずれ別れる存在でも、今は二人とも自分たちの生徒である。
ーーならば、守らねばならない。
全身に呪力を回す。五条が印を結んだ片手を掲げると、黒いサーヴァントの青い目(・・・)と目が合った。
燐光が散り淡く光る青い双眼。それを目にした夏油が突然、五条の横で崩れるように膝をつき口を押さえた。
「マシュ、お願い!」「はい!」藤丸からマシュへと指示が飛ぶ。周囲を集る呪霊から三人を庇うように盾を振り翳し、汚染されたエーテルの肉を弾き飛ばした。
「おい傑!! しっかりしろ!!」
活発になる呪霊に対し、眼前のサーヴァントに動く様子は見られない。
五条は親友を視て、即座に藤丸へ視線を投げた。人と異なる視界には、六眼による脳への負荷と似たような状態に陥っている夏油が映っていた。
その意図を正確に理解した藤丸が礼装による補助のもと夏油へと治癒魔術を施す。
相棒たる五条に背を支えられた夏油の脳には、膨大な記憶が流れ込んでいた。
今まで彼女のスキルにより閉ざされ、堰き止められていた記憶、感情、思考の全てが戻されていく。
それは脳の処理を超えた、情報の奔流による急激な過負荷。それによる眩暈と吐き気だった。
「やめ、ろ……」
ーー深夜様、どこへ行っちゃったの?
不安そうな養女達の顔。
景色は変わり、歩みを進める誰かの後ろ姿。
……だめだ。
振り向いて私へ微笑んだ女が。/置いていくと決めた私が。
……思い出してはだめだ。
笑って、孔へと落ちていって。/救うために、手を離したのに。
……それは、忘れたくなかったのに。
伸ばした手は届かず、安寧に微睡んだ。/共に来てほしいとも言えず。
……忘れたままの方が、穏やかでいられたのに。
呪いを生み落とす非術師が憎い。/君を殺そうとする術師も憎い。
ーーああ、もう。全部、壊してしまおうか。
優しい記憶の隙間から、夏油の心に凶暴な憎悪と失望が溢れて落ちる。
それでも最後に浮かんだのは、手を差し伸べる親友の姿と、咥えタバコの悪友の横顔と、静かに微笑む彼女の姿だった。
目の前に立ちはだかるサーヴァントと呼ばれる式神をトリガーとして、夏油は聖杯により書き換えられた記憶を完全に取り戻した。
同時に、目の前の彼女が夏油が取り戻した記憶の彼女ではないことも。
違う個体。違う世界の同一人物。
夏油の手から飛び去った彼女は今や黄金の杯である。戻るべき肉体は失われて久しく、その強烈な祈り(呪い)は今や地下霊脈へと侵食している。
「どうして……」
「これはわたし≠フ願い。わたし≠ェ得た祈り」
夏油傑が夏油傑のまま、生きて日の下を歩くこと。
たったそれだけの願いのためにこの世界の間桐深夜は己を使った。けれど、使い果たしてもなおリソースは足りず。
その叶わぬ願いを拾い上げ、世界をより強固なものに変えるべく炉心となった彼女に引き込まれたのが、今夏油達の目の前に立つ黒いサーヴァントだった。
腹の底から、絶えず熱いものが湧き出ている。夏油はゆっくりと息を吐き、それを抑えたまま、低く呟いた。
「どうして私の幸せに、君自身を勘定に入れてくれなかったんだ」
ーーどうか、あなたに幸せな未来(悪意なき世)を。
ーー非術師を皆殺しにする。
非術師への失望は変わらない。だが夏油にはどうしても、彼女が命をかけて選んだ今の未来を無下にすることはできなかった。
同じように、術師への失望も夏油は抱いているから。
「五条先生! 夏油先生!」
黒いサーヴァントの影が沸き立つ。同時に、藤丸の礼装に刻まれた術式が二人の呪力を底上げした。
「藤丸! 天に空いた穴だ! あれを消せばミヤは元に戻る!」
「傑、いけるか」
「もちろん。……十年も私から彼女を奪ったんだ。覚悟はしてもらうよ」
夏油が握る黒い玉の中で、無数の呪霊が蠢いた。
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