マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / 夜想聖杯奇譚
開幕


 耳鳴りのような蝉時雨が響く。空は鮮やかに色づき、どこまでも高く澄んでいた。夏は過ぎて暦の上では秋になったにも拘わらず、中途半端に舗装された道路の照り返しで熱せられた外気はうだるように暑い。
 澱んだ田舎もこの煩さと暑さでは都会の地下鉄と大差ないと夏油は密かに思った。

 風一つ吹かない、目に痛いほどの青い空と遠く浮かぶ白い雲。
 二人並んで座る、来るはずのないバス停の寂れたベンチ。
 隠れた相引きにしては情緒がなく、聴取にしては穏やかだった。
 汗と泥に似た汚れで張り付くシャツを扇ぎながら、夏油は不快そうな顔を隠さずに深夜の持つペットボトルを取ると、残った水を喉へと流し込む。流行りの柔らかな素材は少し力を入れるだけで容易く音を立てて潰れた。それを腐食跡が目立つゴミ箱へと放る。
 中に木から落ちた蝉がいたのだろう、ジジジッと耳障りなほどに騒ぎ立て、朽ちた箱の中で暴れ出した。その声を聞きながら、夏油はようやく口を開いた。
「すべての非術師を殺して、術師だけの世界を作ろうと思うんだ」
 一瞬、土砂降りの雨のような音が止まる。ゴミ箱の蝉も鳴くのを止めている。
 なんという間の悪さだろうか。蝉の声が煩くて聞こえなかったと言い訳が出来ないほどの静寂に、下を向く夏油は諦めたように息を吐くと、まるで明日の予定を報告するかのように淡々と深夜へ告げた。
「やつらは、生かしてはいけない。あれが守るべき弱者のはずがない。こんな世界間違っている」
 驚くでもなく、そうと一言だけ返した深夜に、夏油は安堵すると同時にわずかに落胆した。
 その自分の心境に気がついた夏油は微苦笑を浮かべる。引き止められたところで何も変わらないというのに。
「君は、止めないんだね」
 それでも未練がましく聞いた理由を、夏油は言葉にできなかった。
 きっと、彼女なら自分が何をしても否定しないだろうという確信はあった。無関心に近い寛容さが、今の夏油には受け入れられないだけで。
「止めて欲しかったの?」
 不思議そうに首を傾げた深夜に「まさか」と夏油は笑った。硝子もきっと止めないだろう。悟はどうだろうか。そんなことを考えて、夏油の顔には久しぶりに自然な笑みが浮かぶ。
 彼らとの学生生活は目蓋を閉じても蘇る。きっと、どれほど時が経っても忘れることのない、血と悪意に塗れた、けれど優しい日々だった。
 走馬灯のように過ぎる日々に目頭が熱くなる。夏油はこみ上げるものを堪えるように唇を噛むと、からからに渇いた声で「そうかもしれない」と、小さく囁いた。

「ーー悟も、硝子も、きっとあなたを止めるでしょう。どうしてと手を伸ばすでしょう。けれど、私は止めない」

 その声は、慈しまれていると錯覚するほどの柔らかなものだった。
「え……?」思わず顔を上げた夏油の視界いっぱいに、青い、碧い、燐光が散る。水底から光差す水面を見上げるような、たくさんの流れ星を見上げたような。
 五条のものとは違う、昏くて青い陰のある、けれど透明な美しい瞳。
 薄青く澄んだ湖面のような、やわらかな眼差しに見下ろされる。
「……傑がたくさん悩んでいたの、ずっと見ていたもの」
 出会った頃と変わらない、細い腕が夏油の頭を優しく包む。大切なものを撫でるかのような手つきは、忘れていた母親の記憶を蘇らせる。これから無かったことにしなくてはいけない過去の優しい、忌わしいモノになるはずだった記憶だ。
 途端に夏油は縋り付くように薄い背に手を回した。必死に保ってきた何かが溢れ、じわりと視界が滲む。押し付けた胸の奥から、とくりとくりと音が聞こえる。骨が軋む音がしても、彼女を手放せなかった。
 いい子、いい子、と繰り返し撫でる穏やかな声が凍りついた心に染み渡る。耳にこびりつく怨嗟の声が、目蓋に焼きついた憎悪の目線が遠ざかっていく。
 長期間に渡る極度の疲労とストレスが解れた夏油の頭は、次第に眠気から意識が薄らぎ始めた。度重なる任務で疲労が積み重なった体は鉛のように重く、狭いベンチの上に深夜を抱えたまま倒れていく。
 腕の中からすり抜けた温もりを無意識に追いかけるように見上げた夏油の目に、悟とは違う蒼い燐光の散る慈愛に満ちた美しい双眼が映った。
 まるで、心に落ちた澱みが吸い上げられていくような、

「おやすみなさい。どうか、あなたによいゆめを」

 止めて欲しかったのではなく、きっと自分は彼女に引き留めて欲しかったのかもしれない。
 この手を握り、ついて行くと、言って欲しかったのかもしれない。
 だから、夏油の決断も黙認した様子に、柄にもなく落ち込んだのだろう。
 ああ、目が覚めたときもこの目に自分が映っていてほしい。暖かな暗闇に落ちて行く意識の中、夏油はふとそう思った。
 手放さなければいけない温もりに、そう願ってしまった。

「大丈夫よ。あなたがそれを選ぶ必要はない。それをするのは、私の役目だから」

 その言葉を最後に、夏油の意識はブレーカーを落としたように深い夜に落ちた。


 その翌日。いつの間にか呪術高専の保健室で目を覚ました夏油は、深夜が上層部を呪殺、呪詛師として処刑が決定したと悟と硝子の二人から聞かされることとなったが、

「深夜……? そんな呪術師、うちにいたのかい?」




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