マキリの幻蝶 | ナノ
マキリの幻蝶 / マキリの娘と魔法学校
7ー2




「マルフォイ!」
「Incarcerous!(縛り上げよ)」

マルフォイが走るのと同時に、護り(プロテゴ)を食い破った蜘蛛をリドルが魔法で縛り付ける。魔法耐性が高いのか、二人掛かりで紙のように即座に破られた。蜘蛛が赤い複眼をマルフォイに向けた。
残された魔法結界(プロテゴ)の残滓を足場に飛ぼうとする蜘蛛へ、深夜が素早く杖を振る。杖の動きに合わせるように、下から水が渦を描きながら舞い上がった。標的を包むようにして瞬時に水牢を形成すると、蜘蛛は揺れる水塊の中で暴れ狂う。その水塊を覆うように、リドルの束縛の魔法が円を描く。
大陸であれば西暦まで。神秘の長く残っていた島国であれば中世まで。それまでなら、体内の魔力変換により水中や真空での活動も可能であろう。
けれど。どれほどの神秘を持ち越そうと、魔力を蓄えようとも。近代を過ぎてから誕生した魔法生物程度では、どうあってもこの世の摂理には逆らえない。
即ち空気がなければ、陸上生物は呼吸ができないという、一般常識だ。
とはいえ、魔力もない毒虫殺しとは訳が違うため、さすがにこれで殺せるとは深夜も思ってはいない。が、魔力に頼らない部分の機能を弱らせることはできる。神経系はともかくとして、肉体組織全てが魔力でできているということはないだろう。少なくとも、大きさからして呼吸器を潰されれば一介の魔法学生でも数人いれば討伐可能なレベルにまでは落とし込めると深夜は考えている。
大蜘蛛は身に纏う魔力で己を捕らえようとする水を押し戻そうと抵抗する。それを深夜は一層魔力を込め、強引に、力ずくで水の牢獄へと閉じ込めた。杖を握る手はその圧力でかたかたと震えている。

「溺死でもしてくれたらいいんだけど、数秒が限界ね」
「それだけあれば私には十分です。どうかご武運を」

少女を抱き上げたマルフォイが横を駆け抜ける。足に加速の魔法をかけているのか、風のように消え去った。勢いに振り落とされ、叩き付けられるようにして溶けた血肉が落ちる。
黒く変色した血は肉と混じりどろどろに溶けていた。煙を上げながらタイルの溝を伝い、網目状に広がっていく。
……毒だ。
気付いたリドルの顔から血の気が一層引いた。
鉄と腐った肉の臭気が広がる。獲物を盗られたと思った蜘蛛が一層暴れ出した。その抵抗は蜘蛛を捕らえる深夜に直に伝わり、緩衝媒体である杖が硬い繊維を無理に曲げるような音を立てて軋んでいる。
深夜は背後のブラックの様子を盗み見た。伸縮性に長けた粘度の高い糸は、貴族の細腕ではとてもじゃないが引き千切ることなどできないが、オリオンは杖先を糸の表面に滑らせヴァルプルガの肌を傷つけないように焼き切ろうとしていた。
一分か二分もあれば移動は可能になるだろう。
魔力に耐え切れず杖が折れるのが先か、蜘蛛が解放されるのが先か。杖を掲げる深夜の白い顔にうっすらと汗が滲んだ。
水の中を踊るように蜘蛛が跳ねる。毛羽立った表面に付いた気泡が蜘蛛の激しい動きに振り落とされ、渦巻く水流により水塊の中心に集まり、水圧で潰れ弾けまた蜘蛛の体にまとわりついた。
水はすでに歪にゆがみ、外殻のように支えるリドルの魔法で辛うじて宙に浮いている状態だった。
リドルの頬を滑る汗が首筋に伝う。背中も手のひらも汗でぐっしょりと濡れているのに、身体は魔力不足で凍えている。杖に添わせた指先はすでに紫色で、杖を握る感覚もない。
空襲の警報音にも似た耳鳴りがリドルの脳内で響く。
これまでリドルは、死に至る恐ろしいものは飢えと寒さ、空から降る鉄だけだと思っていた。ドラゴンすら退け魔法薬と癒者があれば病気とも無縁の魔法使い。これこそ選ばれた人間だと、何かあれば魔法で全て解決できると、そう思っていた。
……怖い、怖い、怖い。
唐突に、幻想(ユメ)から醒める。
魔法使いに導かれて、おとぎの国へと連れてきてもらった気分だった。だって間違いなくそうだった。ある日突然、偉大だと言う魔法使いが現れて、君には特別な力があると言われ、飢餓と戦争の足音がしていた世界から一気に中世の貴族社会のような場所に連れられたのだから。
目を覚ますのは夏のひと時だけでいい。それ以外は、空襲の音も、飢えの心配も、寒さの恐怖もしなくていい。だからリドルは、綺麗な人たち(魔法族)に囲まれて、赤い空も黒い雲も全部なかったことにした。
自分だって特別なのだから。
それなのに。
星の天蓋の下で心地よく踊っていたのに、冷や水を浴びせられたようだった。
魔法へ抱いていた全能感が崩れていく。愉快で便利な安全なものだという認識が書き換わる。
脳内が、恐怖で埋め尽くされる。
目の前には恐ろしい牙と爪を振りかざした大蜘蛛がいる。床は血に濡れ、魔力が尽きそうなリドル達はあと少しで餌になる。そうイメージしたら、もうその未来しか考えられなくなっていた。
……死にたくない、死にたくない!
だから助かるために、感情で魔力操作が鈍らないよう理性がそれを制御する。閉心術を応用した現実逃避にも似た自己暗示だ。
それすら、今の自分では破れかかっていることを、リドルはよく分かっていた。堰き止められた恐怖心が隙間からにじみ、溢れ出ている。
空から降る鉛玉の音。爆発で家が壊れる音。それらがキチキチと牙を鳴らす蜘蛛の音と混ざり合い、頭蓋の中で跳ね回る。
……逃げたって、誰も咎めない。
それはダメだと取り繕う良い子の鍍金ががれていく。それ見たことかと、リドルと同じ顔をした狡賢い悪童が笑っている。死の恐怖に直面した時にこそ人はその本性が表れると言うが、その通りだと自嘲する。性根なんてそう変わるものではない。院内の序列順位(カースト)を守るため、人の大切なものを奪い隠して立場を守っていた時から変わってなどいなかった。ただその場に合わせて自分まで綺麗になったと錯覚していただけだ。
気がつけば、薄皮が剥がれるように水塊の外から縛っていた魔法が解けていた。
リドルの頭脳は冷酷な計算を始める。
後輩(オリオン)は婚約者(ヴァルプルガ)を置いては逃げられない。これで二人分。小柄なオリオンはすぐに終わるだろう。すでに絡め取られているヴァルプルガもそう時間はかからない。それでは時間が足りない。リドルが無事に逃げるには少なくとももう一人必要だ。獲物が動かないよう糸で巻いて自由を奪い、それから肉を溶かして体液を啜るのだから。三人分の食事の準備には時間がかかるだろう。それだけの時間があれば、先に逃したマルフォイにだって追いつく筈だ。
……では、残る一人は?
靄がかった思考がその一人を考えることを拒んだ。けれど、リドルはいつものように、自動計算式のように考える。罪悪感など感じないように、どこまでも他人事のように、少しだけ自分を切り離す作業。
苦痛を伴うそれに、きつく握りしめた手に爪が刺さった。垂れた血が指を伝い落ち、濡れた床のタイルを斑らに染め上げる。その手に、不意に氷水よりも冷たい手が添えられた。



その冷たさと流れ込む魔力の暖かさに、蜘蛛から滑り落ちた視線が自然と上向いた。揃いの黒髪の奥で輝く青い燐光が、リドルの赤い目に色鮮やかに映る。

「せん、ぱい」

青い、碧い、妖精の仄かな蛍火がリドルを淡く照らす。その光は取り繕った仮面を通り越し、ひた隠すものを浮かび上がらせる。
強くて、綺麗で、トクベツな先輩。
彼女こそリドルが焦がれる理想的な特別だった。リドルに与えられた特別は、魔法の世界ではそう珍しくはない。己の出自がわからないリドルは、貴族階級の魔法族よりも秀でていなくてはならなかった。それなのに、非魔法族の世界では非凡でも、魔法族の世界では平凡に成り下がってしまった。リドルを連れてきた男によって明かされたそれは、リドルの自尊心を刺激すると同時に、巧妙に隠していた昏い埋み火をいっそう燃え上がらせた。
リドルはずっと、彼女の妖精のような青い眼が羨ましかった。魔法界で絶対的な力を持っている貴族に、寝食の心配をすることもなく保護されている彼女のことが。戦争をしている非魔法族の世界に戻らなくてもよい彼女のことが。

「怖い?」

淡々とした口調の冷ややかな声。けれどその声は水のように、恐怖に震えるリドルの心によく染み込んだ。ずっとさざめき揺れていた気持ちが、波が引くように凪いでいく。
恐ろしいことには変わらない。恐怖から瞳孔が広がったまま、それでもリドルは小さく笑んだ。だってこんな蛮勇、グリフィンドールでも眉を顰めただろう。

「ええ。でも

けれど、どうしてこんな前線に立ったのか、リドルはようやく思い出した。
万人にとって特別でなければ価値がないことを、トクベツでなければ守ってもらえないことをリドルは身をもって知っている。今リドルが孤児院から出て、戦火に怯える必要がない魔法界で生活していることがその証左だ。
でも、特別だけが全てじゃないこともまた、リドルは知った。
魔力は底を突きかけ、同じように青白い顔をしている少女を見下ろす。見上げていた姿はいつの間にか同じ高さになり、そして追い越した。

「先輩が、みんながいる」

繋いだ手から魔力が溢れる。
恐ろしいのは変わらない。けれど、リドルに不安はなかった。
後ろには同じ寮生がいて、助けを呼びに走った後輩だっている。何より、隣には深夜(先輩)がいるのだから。

「だから、僕はまだ立てる」

一人ではないということは、こんなにも心強いものだった。


20211022

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