紅葉の娘 | ナノ
いろは鬼 / 序章
05

 
 ごうごう。
 ごうごう。
 低い風音が耳奥で木霊する。どこかに繋がっているのか、坑道の奥からは絶えず怪物の唸り声のような音が響いていた。その中に「カエセ」と叫ぶ音が混ざる。
 その声から逃げるように、泥濘む地面と突き出した岩に足を取られながらも彼らは懸命に走った。
 ちょっとした冒険のはずだった。
 代わりの魔法石が見つかれば退学はなし。ナイトレイヴンカレッジに入学できた以上、魔法石を見つけてくるくらいできる。それで十億マドルの過ちはチャラになるのだから安いものだった。
 二人と一匹、それにグリムと一蓮托生だと言う魔法の使えない人間も連れて訪れた廃坑。
 呆気なく見つかった特大の魔法石。
 なぁーんだ、簡単じゃん。
 ついでに使えそうな石もいくつか採掘して帰路につこうとした、その瞬間。彼らの幼い全能感は崩れ落ちたのだった。
 ーーァエセ、ワ……サヌ、イ……!
「なんなんだ、なんなんだよアレ!!」
「知るか! こっちが聞きてぇわ!」
 粘度の高い液体が落ちる音がすぐ側の岩壁から聞こえてくる。まるで固まり損ねたゼリーを床にぶち撒けたような酷い音だ。反響するせいで距離感も全く掴めない。遠くにいるようで真後ろにいるような、それとも、自分の中から聞こえているような。
「ふなぁ! なんでもいいから逃げるんだゾ!」
 ゴム毬のように跳ねる青い炎を先頭に、エース、ユウ、デュースと続く。
 首筋がちりちりと焼ける感覚にユウがちら、と振り返る。すぐ後ろを走るデュースの奥、曲がり角の奥から錆びたツルハシと燻んだ瓶の頭の怪物が現れた。
「まずい、追いつかれてる」
「くそっ、クズ石なんて、持ってねぇよ!」
 息も絶え絶えにエースが叫ぶ。
 今までは余分に取った石を投げて注意を反らしていた。けれどもう、残すは本命の魔法石だけだ。
 方向を変えた拍子に、まろい瓶の頭からべちゃりと黒い液体がこぼれた。
 勢いよく跳ねた液体はデュースの首まで届き黒い制服を汚す。
「急げ!」叫ぶデュースにエースは舌打ちを返す。そもそもこんな、怪物が出るなんて話は聞いてなかった。
「スペードくん、少し先の坑木で狭くなってるあそこ、大釜で塞げる?」
「えっ? あ、あぁ! 任せてくれ」
 ーーいでよ、大釜!
 呪文とともに何もない宙に大釜が出現する。いつもよりも大きなそれは坑木の間にすっぽりと収まった。けれどーー
「ふなぁああ!? 何やってんだオメェ!」
「ばっ……お前、通る前に塞ぐやつがあるか!」
「だ、だって塞げって……」
「どう考えても! オレたちが通り過ぎたらだろうが!」
 言い争いをする間も燻んだ瓶頭の怪物は止まらない。むしろ先ほどよりも勢いをつけて迫り来る。
 怪物が手にしたツルハシをめちゃくちゃに振り回すたびに支保は折れ、岩壁はぼろぼろと崩れた。
「くそっ、こんなところで……」
 マジカルペンを構えたエースが大釜を壊そうと呪文を紡ぐ。
「リーフショット!」
「くらえ! グリム様スペシャル!」
 正面から鋭い風と炎を受けた大釜は、かすり傷すら付かずにぐらぐらと揺れるだけだ。続いて放たれたデュースの水魔法も、熱された大釜から大量の水蒸気を生じさせただけで、坑木の向こうへと押し出すほどの力はない。
「イシ、カエセェエ!!」
 びちゃびちゃと黒い粘液を撒き散らしながら、ごぼごぼと溺れた人間が発するような音がユウ達の鼓膜を叩いた。
「出でよ大釜ァ!」自棄になったようにデュースが叫ぶ。再び喚び出した大釜を怪物のツルハシは容易く砕き、その勢いのままに岩壁に深く突き刺さった。
 抜けないツルハシに夢中になっている怪物を見たエースが僅かに口角を上げ、追撃のための魔法を放つ。
「ルサナイ、ユルサナイ……! アアアアアアーー!!」
「うわっ!!」
 怒りが頂点に達した怪物の咆哮はびりびりと空気を震わせ、エースの魔法を打ち消した。その衝撃は凄まじく、頭上の岩はぼろぼろと崩れ落ち、人よりも聴力が優れているグリムは「きゅう、」と可愛らしい音と共に気を失った。
「グリム!」
 ユウは慌てたようにグリムを抱えると、ぐらぐらと揺れる大釜へと視線を向ける。怪物は再び叫びながら近づいている。もう距離も少ない。咆哮により岩壁が崩れたことで、ツルハシも抜けてしまった。
「二人とも、私に力を貸して」
 この期に及んで何をとエースが振り向くと、グリムを抱えたユウは突如大釜へ向かって走り出した。「うおっ!?」突然駆け出したユウにエースが驚いた声を上げる。ユウはそのままグリムを抱えて大釜に飛び込むと「二人とも! 早く中に!」とエースとデュースを呼んだ。
「はぁ? お前……あぁ、そういうことか!」
 ユウとグリムが中に入ったせいか、魔法が当たった時よりもゆらゆらと揺れる大釜を見て、怪訝な顔をしていたエースが気付いたようににやりと笑う。
 その隣でよくわかっていない様子のデュースへマジカルペンを向けると、後ずさるデュースの身体がふわりと浮かんだ。
「はぁ!? ちょ、何を」
 チェリーシロップのような赤い目がきらきらと瞬く。焦ったように暴れるデュースに、エースは笑みを深めた。
「さっきのお返し、だ!」
 強く握ったマジカルペンを、ボールを投げるようなモーションで振るう。腕の動きに合わせて投げ飛ばされるようにして飛んだデュースは放物線を描いて大釜の中のユウにぶつかった。
 エースも続くように駆け出す。そのすぐ後ろ、先ほどまでエースが立っていた場所を、ツルハシが深く抉った。
「エース!」
「急げ!」
 大釜の中からユウとデュースが叫び、手を伸ばす。それに応えるようにエースも大釜へと手を伸ばし飛び込んだ。二人の手がエースの腕を掴み引き込むと、振り向きざまにエースがペンを握る腕を振るう。
「じゃあな、デカブツ野郎」
 マジカルペンの先で空気が渦を巻く。生み出された突風は大きく広がり弾けた。
 怪物へではなく、真下へと。
「うわぁあああ!?」
 地面を抉る勢いで放たれた突風は三人と一匹が収まる鉄の大釜をふわりと浮かす。枕木にすっぽりと挟まっていた口を支点にし、大釜はぐるりと回転した。
「ふな゛っ!」
 回転の勢いで反対側へと放り出されたユウ達は、潰れた蛙のように濡れた坑道の地面に叩きつけられた。
 獲物が突如消えたように見えた怪物は半狂乱になりながらツルハシを振り回している。その切っ先が当たったのか、大釜に罅が入った。
「まずい、逃げるぞ!」
 一斉に走り出す。大釜を挟み、怪物からは反対方向ーー出口へと向かって。


20220824

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