紅葉の娘 | ナノ
いろは鬼 / 序章
03



 夜も深まり、黒絹に砕いた硝子を散らした天蓋が空を覆っている。今は草木も眠ると例えられる、丑三つ時だ。今時に言うと午前2時過ぎ頃。今にも抜け落ちそうな見た目をした屋根の上で、夜の闇に溶けるような黒髪を靡かせる麗人が一人、雨上がりでまだ濡れた気配のする空を見上げていた。
 その横を、一匹の蛍ーーに見える光の粒子が横切った。黄緑の光は濃密な魔力で編まれている。麗人の指先を滑り空へと上ると、突如として淡い輝きを放つ炎が吹き上がった。その濃密な魔力はガスのように広がり、たちまち爆ぜて消えていく。溶けた氷の時を巻き戻すように、やがて人の形へと変じたそれと麗人の目が合うと、強い力で腕を引かれた。
「マレウ、っ」
 抗議の声は寮服に吸い込まれた。引かれた腕は掴まれたまま、マレウスの腕の中に抱きとめられる。麗人の耳元でパチリ、パチリと雷が爆ぜた。
「……人の子と、獣が増えたと聞いた」
 温度のない声だった。見上げると、とろりと溶け落ちてきそうな、炯炯と光る黄緑の眼差しが真っ直ぐに麗人へと注がれる。
「僕の部屋はないのに、人の子と魔獣の部屋はあるのか?」
 マレウスが鷹揚とした動作で麗人の顔を覗き込む。冷たく嗤う声に心臓を掴まれたような心地がした。怒っている。闇を統べる妖精種、それも次期王と定められているほどの男が無意識に放つ、人を惑わす魔性の響きが耳を侵し脳に染み渡る。背筋に痺れが走るのは、侵蝕してくる魔力への抵抗によるものだ。妖精特有の魅了の魔眼が使われているとわかっていても、妖しく輝きを増す黄緑の瞳から目が逸らせなかった。
「は、なせっ……」
「何故?」
 顎を掬われ、強制的に上向かされる。乱暴な仕草なのに触れる手はどこまでも優しかった。玻璃細工に触れるような手つきは、麗人から抵抗の意思を削がさせる。
 マレウスが怒るのも無理はなかった。自分が金を出した屋敷に、いつまで経っても自分の部屋がないのだから。関係が恩人から友人、恋人へと変わってもだ。これまでは客間も専用の部屋もなくても互いに問題はなかった。
 けれど、今回だけは違った。その理由は言われずとも分かっている。かつて、長として治めていた村の娘達とも似たようなやりとりをした覚えが麗人にはあった。だから明日にでも言おうと思っていたのだが、噂を聞いたマレウスの方が一足早かったようだった。リリアに口止めをしなかった昼間の自分が酷く恨めしくなった。
「僕が聞いているんだ、答えろ」
 マレウスの肩から落ちた黒髪が帳のように麗人を閉じ込める。何故だと責める視線は容赦なく突き刺さり、目を逸らすたび、拒むたびにパチリと雷の魔力が弾けた。
 麗人の脳内で村娘達を代用したシミュレーションが何度も繰り返される。こんなことに記憶の中の彼女達を使うことへの抵抗はあるが、こと恋愛においては一番信用できる相手である。なにせ殆どが麗人の側室、もしくはお手付きとして側仕えをしていたのだから。
 もだもだと言い淀んでいる間にも、マレウスの苛立ちは募り雷が弾ける。遥か頭上からはごろごろと地響きのような音が鳴り始めた。
 記憶の中の一人が、素直に言うのが一番だと微笑んだ。……本当に? いいのだろうか。娘達を庇護するためだけの偽りのものとは勝手が違う。満遍なく公平に平等に愛を分ければよかった頃とは何もかもが違うのだ。そもそも、マレウスは村娘達のような性格ではない。
 不安に瞳を揺らす麗人に、記憶の中の少女は大丈夫と笑ったままだった。
「イロハ」
「だって……なければ、その……私のを、使うしかないだろう」
 どう言えば誤解がないか考えた末、麗人は再現された彼女の言う通りにすることにした。
「ーー」
 麗人が途切れ途切れに告げた途端、目を瞬かせたマレウスから剣呑な光が薄れる。けれど、代わりに広がったのは困惑の色だった。
「あ、ちが」違うと言いかけて、マレウスの顔が険しさを増す。間違ってはいないが、正解とも言えなかった。
 今のはまるで褥に誘うような言い方であった。ただのイロハとしてではなく、かつての男装時代、たくさんの恋人達に囲まれていた頃の彩葉(いろは)が混ざってしまっている。本当は寝間着で遊戯に興じたり、寝落ちるまで喋り続けることがしたいだけだ。麗人が生前、ついぞしたことがなかったこと。そんな余分、あの頃にはなかったから。
 そんな麗人の事情など、一部教師陣を除いて知らぬこちらの世界では、部屋があれば就寝の時が楽しい時間の終わりである。だから、今のまま、同じ部屋を使わざるを得ない状況のままが良かったのだ。……こんなこと、娘達ともしたことがなかったから。
「す、すまない……今のは忘れて、」
 羞恥で頬が朱に染まる。胸についていた腕を押し、逃れるようにマレウスの体を遠ざける。体はすんなりと離れたが、腕はまだ掴まれたままであった。ブラウスの上に寮長服の羽織を纏った軽装だからか、触れられているところに熱を感じる。
 口を押さえたまま動かないマレウスに、麗人は伺うように顔を見上げた。マレウスも腰を折り顔を近づけると、こつ、と硬い音を立てて互いの双角がぶつかる。強い魔力への防衛反応として、いつの間にかヒトの擬態が解けていたようだった。額を擦り合わせられながら「部屋は、近いうちに用意させる、ので」と麗人が途切れ途切れに言う。
「ーーいや、やはりいい。よく考えたら、僕の寮にもお前の部屋はなかったからな」
 マレウスは機嫌よくそう言うと、「夜風が冷えるだろう」と囁き麗人の手を取り室内へと転移魔法を使った。



20211221

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