紅葉の娘 | ナノ
いろは鬼 / 序章
02




埃が白く積もり、角には見事な蜘蛛の巣が張られている古びた部屋に、一人立つ。青白い月光が照らすその部屋は、奇妙な既視感のある空間だった。
それに、少女は何となしにこれが夢であると悟る。
だって、ここはこんなにも古びた部屋はない。綺麗にして、整えて、全部取り繕ったのだから。
何故自分がそうと知っているのか、そのことに少女は疑問を抱かない。
目の前には、壁にかけられている見たこともないほど大きな姿見。その上にはクリスマスを思わせる、赤い南天が可愛らしい柊のリース。造花ではないのか、床には落ちた葉と実がいくつも散らばっていた。
今も、一つ、また一つと赤い実が落ちる。
薄布のように埃がついた鏡の奥に、人影が浮かんだ。淡い輪郭は少女を誘うように揺れ、その色を濃くしていく。
体の表面、薄皮一枚だけを縫われたように、少女の身体が引っ張られた。

「あ……」

手招いている。
ダメだと思うのに、少女の身体は硬直したままだった。
呼ばれている。


――鏡の奥から、
 ――黒い人影が、
  ――こっちへおいでと、


「この程度の結界で、私を足止めできると思うてか」

少女の体がぐらりと傾いだ瞬間、鈍く光るものが薄くぼやけた鏡面へと突き立てられた。しかしその先端が鏡へと触れる寸前、鏡は磁石が反発するかの如く切先を拒む。
その抵抗を力任せに打ち破ると、みしりと音を鳴らしながら鏡に亀裂が走っていく。

「さぁ、帰ろう。ここは其方がいるべき場所ではない」

低く澄んだ声が少女の意識を優しく包んだ。
鏡が割れる。音を立てて割れた破片は、しかし床へと落ちる前に雪のように消えてしまった。
少女の世界が暗転する。





何か、夢を見ていたような気がする。
眠りすぎて痛む頭を押さえながら、高級ホテルと間違えるほどのベッドからユウは起き上がった。覚えているのは、行く宛のない自分を歓迎してくれた麗人。その影を探して暖かな廊下を歩く。中世の城のような窓から覗く外は、バケツをひっくり返したような大雨が降っている。
……雨風を凌げるだけじゃなく、こんな暖かい家まで。どうお礼をしたらいいのかな。
無一文でここまで連れて来られたユウには、何も渡せるものがなかった。家に帰ることができたとしても、これだけの恩を返せるとは思えない。人生経験もそれほど無く、どう返せば良いかも分からなかった。
腕に抱くジャケットからは、懐かしさを感じるような、気品ある甘い香りが仄かに立ち昇っている。

その時、誰もいないはずの廊下から物音がしたことに、ユウは気がついた。
そろりと忍び足で角に近づく。雨音に紛れたペタペタと鳴る足音と床の軋む音。
壁に両手を当て、そっと覗き込み――

「急にひでぇ雨だゾ!」
「っ!!」

突然、反対側から声をかけられた。

「ぎゃはははっ! コウモリが水鉄砲食らったみたいな間抜けな顔してるんだゾ!」

ケラケラと笑う灰色の狸は、ユウが散々追いかけ回された火を噴く魔物だった。揺らめくその青い炎に、ぞわりと背筋が粟立つ。薄暗く狭い箱の中で確かに感じた火の熱と死の恐怖が、鮮明に蘇った。

「オレ様の手にかかれば、もう一度学校に忍び込むことくらいチョロいチョロい。ちょーっと外に放り出したくらいで、オレ様が入学を諦めると思ったら大間違いなんだゾ!」
「だっ、誰か……!!」

得意げに笑う魔物への恐怖が限界を超え、ユウは助けを求める声を上げる。しかし震えた声に力は無く、屋内でも聞こえてくる轟々と降る雨音にかき消されそうだった。

「こ、こここらー! オマエ! ちょっとオレ様の事情を聞いてやろうとか、そういうのないんか!? 話くらい聞くんだゾ!」
「誰か、誰か助けっ……!!」

声が裏返りながら、ユウは必死に喉から声を絞り出す。人を呼ばれると焦ったその獣――グリムが慌てたようにユウへと近づいた。それに余計に恐怖が掻き立てられ、ユウの喉からは隙間風のような息がもれる。
その時だった。
暗い窓の外が照明を当てたように明るく光、地を割くような轟音が響いた。
一瞬、廊下の明かりが落ちる。数度ちかちかと明滅を繰り返した電球は、直後ブツンと音を立て完全に沈黙した。
瞬きの間だけ稲光に照らされた廊下に青い炎が揺れる。その灯りが、ユウには黄泉路へ誘う鬼火のように見えた。
恐怖で完全にパニック状態となったユウが硬直する。それに気がつかない獣は、ユウが停電を直せないことに気がついた。

「固まっちまってなんなんだゾ? これくらい魔法でパパーっと……って、オマエ魔法使えねぇのか。ププーッ! 使えねぇヤツだゾ! やっぱりオレ様の方が……」

獣がケラケラと声を上げる。ユウが腕に抱える制服を奪おうと近づくと、震える足でユウが一歩下がる。助けを呼ぶ声は掠れ、音も出なかった。

「さぁ、その制服を――」
「――ほう、魔獣の幼体か」

背後からかけられたその冷えた声に、グリムは総毛立った。
火を吹こうと吸い込んだ空気は、炎へと転ずることなく身の内で循環し、霧散する。

「私を喚ぶ声に急ぎ来てみれば……」

全身の体温が冷えていく。
毛穴からは脂汗が吹き出た。
尾先は丸く縮こまり、耳の炎がぶわりと膨れ上がる。
緊張から硬直し、軋む首を無理矢理動かして振り向くと、制服を剥ぎ取ろうと狙っている人間と同じ姿をした、男のような女がいる。
人と同じ丸い耳と細い手足。獣とは違う引っ込んだ口。瞳孔も丸く、纏う色彩も人間の範疇である。
しかし、グリムが感じ取ったその気配は、傍の子供とはかけ離れていた。
人でもない。獣人でもない。まして妖精でもない。圧倒的で異質な気配。遠い記憶の彼方、グリムの体を叩きつける冷たい水と氷のつぶてに似た視線に、グリムの周囲だけ魔法で氷点下にされたかのような寒気が走る。とろりと滴る蜜を喉奥まで流し込まれているような圧迫感が、グリムに重くのし掛かった。
赤い双眸に雷のような金が奔る。
あまりにも冷たい空気に、グリムは炎が消える己の姿を幻視した。
何か言わねばと焦る口から息がもれる。間違えることも駄目だ。しかし何か言わねば。
焦れば焦るほど、グリムの口は閉ざされていく。

「オ、オレ様、は……」

紅玉が眇められ、濡れ羽色に艶めく髪がしゃらと揺れる。背後の気配が忙しなく視線を彷徨わせるのも気にならないほど、グリムの小さな心臓がかつてないほどの早さで回り、魔力を生んでいく。

「――、」
「はい、そこまでですよ」

床にステッキを叩く音と共に、グリムに纏わりついていた圧力はふわりと溶けるように掻き消えた。

「侵入の警報が鳴るので何事かと来てみれば、昼間の魔獣じゃないですか。遠くに放ったはずなのに、何故ここに?」





聞けば、どうやら魔獣――グリムはナイトレイブンカレッジに通いたくて忍び込んだと言う。夢は大魔法士と言うだけあり、知能も人間の児童程度と魔獣にしては高く、保有魔力量は幻想種に近い多さだった。魔獣、モンスターでさえなければ、人型であれば間違いなく馬車の迎えがあっただろうとクロウリーは思う。
視線を感じて横を見ると、麗人がクロウリーを見つめていた。その見定めるような、値踏みするような冷酷な眼差しに冷や汗が流れる。

「まず、ユウさんの魂を呼び寄せてしまったことに関しては、闇の鏡を所有する学園に責任がある。なので、滞在中の衣食住についてはこちらの寮を無償で提供します」

ユウが住人であろう麗人へ伺うように視線を向ける。麗人は美しい微笑みを浮かべると、自然な動作でユウの肩へと銀の装飾のついた黒いストールをかけた。火が恐ろしいのだろうと、囁くように落とされた声にユウは小さく顎を引く。胸の前でかき合わせるように握ると、暖かなストールにじんわりと心が解れていくのを感じる。

「……しかし、元の世界へ戻るまで何もすることがないのは詰まらないでしょう。隣の彼……イロハ君がいる限りですが、授業への見学と図書館の利用を許可します。どうやら、元の世界でも学生のようですし? それから――」
「こいつばっかりずるいんだゾ!」

そう叫んだグリムへ、再び冷ややかな視線が刺さる。氷の刃を首筋に押し当てられたような寒気に、グリムから甲高い悲鳴が短く上がった。

「イロハ君、ほどほどに。……そして貴方ですが、モンスターの入学を許可するわけにはいきません。ですが、何度も侵入を繰り返すほどの力があるようですので、特例としてユウさんと二人一組で「雑用係」というのは如何です? そうすれば、特別に学内への滞在を許可してさしあげます。私、優しいので」
「ええ〜!? そんなの嫌なんだゾ! オレ様もカッケー制服着て生徒になりたいんだゾ!」
「不満ですか? なら結構。貴方はまた外に追い出すだけです」

クロウリーが冷たく言い放つと、グリムは慌てたように口を開いた。二人一組にしたのは監視のしやすさを考慮してのことだ。ユウが何かをするにはイロハが側にいないとならず、様子からするにグリムと揃っての無茶はないだろうと判断してのことだった。既にイロハとも打ち合わせは済んでおり、クロウリーが麗人を横目で見ると、グリムを見て笑みを深めていた。その目は蛇のように瞳孔が裂けている。完全に、獲物としてロックオン状態だ。

「ふなっ!? わ、わかった! やればいいんだろ、やれば!」
「……自分は、魔法が使えないのにいいのですか?」

おずおずと手を上げて尋ねるユウのいじらしさに、クロウリーは涙が溢れるほどの感動を覚えた。あまりにも良い子過ぎる、と。

「ええ、ええ……!ユウさんはどうか帰るその日まで、楽しんで過ごしてください。では、二人とも、明日からナイトレイブンカレッジの雑用係として励むように!」

高らかに宣言したクロウリーは、その上がったテンションのまま勢いよく学園長室へと転移した。



20210801

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