遍く照らす、 | ナノ

遍く照らす、 / 火群の瞬き




熟れすぎた果肉を壁に擦り付けるような音と、水の滴り落ちる音にアマネは目を開いた。
広がる暗闇は段々明るさと形を取り戻していくが、体があるという感覚はどこまでも薄かった。
今開いたものが本当に目蓋だったのかすらも曖昧で、しかし意識だけは明瞭としている。それは、自身の身体は元々この意識だけで、そこにただ肉の塊がぶら下がっているだけのような気さえしてくる程に。
アマネという意識に、自我に、付随している筈の肉体はとにかく鉛のように重い。指先まで全ての神経が遮断されているかのように微動だにしない。それでも辛うじて開いている目蓋の奥、焦点を失い空を彷徨う虚ろな灰の瞳に、遥か頭上から見下ろす白く霞んだ朧月が映った。そして見下ろすように、黒い空から垂れる幾万もの針山が。その先端から落ちる水滴のように、臓腑を震わせる程の数多の呻き声がアマネに降り注いだ。
冷たく暗い地獄の底へと落ちてしまったかのような錯覚に、意識ごと心臓が凍りつく。
しかしそれは、地の底を震わせる雷鳴にも似た轟きによって砕かれて――途端、意識が黒く塗りつぶされるほどの痛みが、アマネの身体に戻ってきた。背中が焼けたように熱い。息を吐くだけで肺が痛む。雷撃を浴び続けた影響か、全身に酷い筋肉痛のような痛みが駆け巡った。
痛みや苦しみに強いハンターの強靭な肉体でさえ辛うじて耐えられている程の激痛が、身の内を蹂躙していく。
だらしなく開いた口から、意味をなさない言葉が喘ぐようにこぼれた。

「ぁ……いき、て……」

……生きている。
苦痛が身を焼く痛みに、アマネは漸く自身が生きていることを確信した。
血臭と、風に乗って漂う生臭い磯の臭いが入り混じり、鼻をつく。
……まだ、生きている。
敗れた英雄の見ている夢ではなく、確かにここに生き延びた。夢ではないと確信し、大きく息を吸った。膨らんだ肺が押し上げる、肋骨の軋む音が身体中に伝わる。
もう一度、咆哮が空間に反響し轟く。
どこか楽の音にも似たそれは空洞内で何度も木霊し、不気味な旋律となり響き渡る。根の国で聞く子守唄のように耳にこびり付くそれは、確かに雷神龍のものだった。

「っ、ぐ……」

アマネは痛みで震える体に歯を食いしばりながら立ち上がろうと腕を突いた。
雷撃による熱傷と擦り傷、内出血で斑らに血が滲む腕が情けなく震えている。力を入れるたびに軋む身体を鞭打って、隙間風のような音を立てながら息を吐く。唇を震わせ喘ぐように声を漏らしながら、剣を支えに膝を突いた。意識が遠のく程の激痛に、アマネの目尻に生理的な涙が滲む。
……まだ、動ける。
冷えた身体に熱が灯る。心臓が指先にまで血液を送り出す音が強く耳の奥で響いた。
霞む視線の先は、威光の消えた雷神龍。空気を震わせる静電気を放つ。しかし、雷も纏えない程に弱っているのか、咆哮を繰り返し上げながら腹袋を引き摺り蠢いている。

「まだよ……まだ、私は戦える……!」

常人であれば死に至るほどの雷撃を幾度も浴び、熱傷にひりつく喉から嗄れた声が漏れる。震えが残る膝で地を踏みしめると、雷神龍も血臭を漂わせる弱った人間に向けて、咆哮を上げながらその大きな口を広げた。鋭く尖った歯が二重に並ぶ異形の口がアマネの眼前に曝け出される。肌を撫でる風とは違う、雨雲の匂いがする生暖かく湿った風が吹き付ける。
血で滑る剣を両手で構えたアマネが血を吐きながらも気炎を上げ、咆哮する雷神龍へと駆け出した。
それは最早、禍群の狂騒を祓う猛き火群としての執念だった。

しかし、その刃は雷神龍に届くことなく穴の底へと転がった。
突如として舞った、赤紫色に底光る鱗粉がアマネと雷神龍の間で破裂する。
爆風に後方へ吹き飛ばされたアマネは硬い地面へと叩きつけられた。雷神龍もその巨大な龍体を仰け反らせ横に倒れ込む。逃げるように腹を引き摺りながら地を蹴ると、僅かに浮いては落ち、周囲の石筍に幾度も体を打ち付けながら何処かへと飛び去った。

「ぁ、……っ」

引き止めようとする声はもう、音にもならなかった。無理に身体を動かした反動で口から血が溢れる。爆風による熱で傷口からは再び血が吹き出し、鍾乳石で覆われた地底の窪みへと流れて行った。
既に飛び去り、闇へと消える龍体を茫洋とした眼差しが追う。その黄色に輝くものへと伸ばした手は、地を這いただ徒らに空を掻いて終わった。
受け身を取ろうとして失敗した身体が力なく水溜まりへと沈んでいく。
再び、赤く光る火の粉が舞う。赤に紫に炯々と輝き、薄暗い穴底を明るく照らし上げる。
霞んだ眼にも輝いて見えるそれは、アマネの身を包むように覆った。もう一度破裂でもしようものなら、今度こそアマネは無事では済まない。
……あと、少しだったのになぁ。
爆発さえなければ、間合いと勢いから確実に自身の剣は届いていたとアマネは断言できた。引き換えに、雷神龍の鋭利な歯がその身に食い込み、今度こそ引き裂かれていたとしても。
切れ味はまだ鋭さを保ったままの愛剣は並んだ歯列の先、喉奥から滑り込み、その脳天へと穿たれたであろう。そしてそのまま爆破属性を叩き込めば必ず斃せていたのにと、それだけがアマネは心残りだった。
その最後の一振りを奮うことなく先に地面へと沈んだアマネは、既に逃げる気力も体力も潰えていた。しかし、それでもせめて火の粉の出元を一目見ようと視線で探り追いかけていると、不意に頭上に影が差す。緩慢な動作で頭上を仰ぐと、紫と、鋭い眼光がアマネの霞む視界に広がった。
鬼火を纏った怨虎竜が、アマネをじっと見下ろしていた。
青い強膜に浮かぶ黄緑の角膜と、燻んだ銀灰が交差する。

「お、まえ……」

首を下げた怨虎竜は眼前で鼻を鳴らし、匂いを嗅いでいる。血臭に寄せられたのか、頬にべったりと付着している乾き始めた血を舐めとった。やすりで撫でられたような痛みにアマネが目を瞑る。
すると突然、怨虎竜は力の入らない身体を咥え器用に持ち上げた。
その衝撃で辛うじて頭に引っかかっていた面が音を立てて落ちる。怨虎竜の脚で割られ、ひしゃげた面の横に割れた碧い硝子玉が転がった。

「ぁ……」

冷たいそれを、思わず伸ばした手で受け止める。直後、怨虎竜はひと蹴りで跳躍し、雷神龍が飛び立った方とは反対の道へ向かって駆け出した。
怨虎竜の口元で人形のように揺れながら、雷神龍が消えていった暗闇が遠ざかっていくのをアマネは眺めた。
視界が暗闇に包まれていくにつれ、深い水底へ沈むように、アマネの意識も次第に暗闇に包まれていった。



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