遍く照らす、 | ナノ

遍く照らす、 / 禍群の唄
01



 凍えるような世界の中で、ふいに柔らかな東風が吹いた。
 姿は違えど変わらぬ仄かな甘い香りに、ウツシはアマネだと直感する。
「ぁ……」
 来てしまったのか。誰にも見つからないよう洞穴の入り口は念入りに塞いでいたというのに。あのまま隠れてくれていればと思う一方で、ウツシはアマネが来てくれたことに歓びを感じていた。
 ーー触れたい。
 血を流しすぎた体は氷の中に閉じ込められたように凍えている。目は白く霞み、耳も鼓膜が破れ固まった血で塞がれている。
 少し前までは軽やかに空を駆けていた身体は、もはや鉛のように重い。まるで水底に沈んだ船のようだった。
 そんな有様でも、ウツシは彼女がすぐそばにいることを確信し、腕だと思った箇所を懸命に動かす。
 触れて、抱きしめて。それから手を繋いで歩きたい。そんなとりとめのない欲望が浮かんでは消えていく。
 あまりにも今更な願いだと理解したうえで、キミは一人じゃないと伝えたかった。変貌した性質は憎まれるばかりではないのだと。変わらず愛を注ぐ人間もいるのだと。
 そう言った口で、これから一人にしてしまうというのに。
 ーー触れたい。
 伝えたいことは山ほどある。
 今も胸に広がる数々の鮮やかな思い出を。
 そばにいると約束して、今まで違えることのなかった奇跡を。
 それが、ウツシにとってどれほど得難く大切な存在なのかということを。
 そして何より、ただ愛していると、伝えたい。 
 そう、愛しているからこそ強くなって欲しかった。簡単には死なないように。一人でも生き残れるように。それが、禍(わざわい)群がるこの里での愛し方だったから。ウツシはそれしか知らなかったから。
 けれど、きっと正しくはなかったのだろう。間違いではなかったけれど、正しくはなかったのだ。そのことに気が付いたのは、彼女が英雄と呼ばれた時だった。
 俺は、傍にいるべきだった。繭に閉じ込めたまま、その背中に翅があることを気づかせないで。そうすればずっと里から出ず、誰の目にも留まらなかったのだから。
 ーー会いたい、なぁ。
 無理だと判断を下す思考を押しのけて、手を伸ばす。視界はもう、暗い夜の中に取り残されていた。だからせめて、もう一度触れたくて、その声に手を伸ばした。けれど必死に伸ばせば伸ばすほど、その温もりからは遠退いていく。
 今動かそうとしているのが手なのかもわからない。塗りつぶしたような黒い世界ではどこにいるのかも分からず、ただただアマネ、アマネと、迷子のように手を伸ばした。
 会いたい、
 会いたい、
 会いたい、
 忘れぬよう記憶の底に閉じ込めた柔らかな微笑みを夢想すると、一面の黒に色彩が降り積もった。
 星の瞳が柔和に細まり、薄紅の天蓋から注ぐ暖かな春の木漏れ日が沈む世界を淡く染め上げる。
 けれど現実は、凍てつくような木枯らしが耳朶を刺し、冬の始まりを告げていく。遠くから響く吹きすさぶ風の音は重なり合い、山が低く唄うように木霊していた。
 ふと、その中で柔らかな葉擦れの音が混じり出す。鉱石を叩いて奏でる澄んだ音色が聞こえてーー
 ーー教官、ここにいますよ。今、治して差し上げますからね。
 嗚呼、そこに、いたんだね。
 遠くから響く唄のような声だと思った。遠い海底から対を探して響くような。天から降り注ぐ祝福のような。氷の海を広がり冬山の洞で反響し、どこまでも残り続ける不思議な響き。
 顔に硬く冷たいものが触れた。けれどその優しい手つきは身体が覚えている。
 包み込むように頭を抱えたアマネが瞼に口付けを落とすように柔らかに触れると、ウツシが見ていた暗闇は瞬く間に変貌した。
 鉛色の空は鮮やかな黄昏に。
 灰が積もり水晶化する地面は花々が咲き乱れ。
 そうして見上げた先、もはや像を結ばないと思っていたウツシの網膜に、在りし日の面影を残す美しい少女の姿が映り込む。
 淡く発光する体表も、降り注ぐ鉱石混じりの雪が細やかに輝く様も、その額を覆う藍色の鉢巻の模様さえも。
 ようやく、会えた。
 もう二度と見ることは叶わないと思っていた懐かしい姿に、自然と視界が滲んだ。
 薄く微笑む少女の肌を覆い隠していた鱗は、やがてぽろぽろと剥がれ落ち黄昏の空へと舞い上がった。背中からは青白く輝く結晶が生い茂る木の枝のように天へと伸び上がる。まるで、故郷(カムラ)の空を覆い咲き誇る祓え桜のように。
 彼女が息づくたび、枝先からは細やかにきらめく結晶が春の綿毛のように飛び立つ。淡く発光するそれは風に乗り、薄色の空を染めていく。研磨した鉱石を散りばめた薄布を纏った、西洋の婚礼衣装のような煌びやかさがあった。
 目に映るものは血と埃舞う世界ではなく、鮮やかな色彩に満ちた、けれど不快な賑やかさではない、まるで春の盛りのような暖かな世界だ。
 それはアマネと出会い、色づいたばかりの頃をウツシに思い起こさせた。
「あい、してる。俺……の、アマネ」ウツシの口から自然と言葉がこぼれる。
 ーーはい。私も、お慕いしています。
「ずっと……ずっとキミと、いっしょ……だ」
 柔らかに微笑むアマネは答えるようにウツシの頭を包みこむ。冷えきった体が、暖かい繭に包まれていく。
 嬉しい。どこまでも満たされていた。血を流し冷え切った身体がじんわりと熱を帯びていく。
 とうに限界を迎えていた身体は、与えられた温もりと安堵に、ようやく最後の抵抗を止めた。
 暖かな光に包まれて、幸せなまま眠りに落ちる。
 ずっと昔、こうしてアマネと共にうたた寝をしたことがあったことを思い出しながら。
 ウツシはゆったりと瞬きを繰り返し、最期まで美しいアマネの姿を目に焼き付けようと、再び天を見上げた。
 ーーどうか、良い夢を。
 ああ、キミもね。

 
 禍群の唄
ー禍龍 羽化ー


20230507

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