遍く照らす、 | ナノ
遍く照らす、 / 禍群の唄
03
◇
冷たく湿った夜風が肌にまとわりつく。いやに眩しい月が中天から見下ろしているせいで、眠り続けるアマネの白い首が暗がりにぼんやりと浮かんで見えた。黒々とした絹髪に隠されていても日を浴びた細石のように細やかに輝く鱗は、いつか渡した南京玉の首飾りのようにアマネを飾っている。
顔は下に向いているため、ウツシからその表情は見えない。けれど、いつものように、穏やかな顔で眠るアマネを想像する。少し眉は下がって、口は意外としっかりと閉じているのだ。彼女がまだウツシの腰ほどまでしかなかった頃は面白くて突いていた。ずっと変わらない、いつもの見慣れた寝顔。
「触れてはならんゲコ」
「承知してます」
携えた刀は酷く重い。鉛の塊だから軽いはずはないのだが、それにしたって重かった。鞘から抜き放つと、一層重さが増していく気さえする。
心は未練ごと冷えた鉄のように硬く凍えていく。研がれた意思は刃となり、いつか里を守るための力となるだろう。
それでも、目蓋を閉じれば数え切れないほどの思い出が蘇り、ウツシの刃を曇らせる。
天を覆う祓え桜が舞い散る季節から始まり、思い返せば長い師弟生活だったのだから、それもそうだろう。
ーーお兄さん。
ーーアマネちゃん。
「ぁーー」
急に里長が連れてきた幼い子。そのうち寄る辺のないもの同士、二人で暮らし始めて、散々悩んだ末に師弟になることを二人で決めて。
ーー教官。
ーー愛弟子。
「ぁ、ああ……」
何人か兄弟弟子はいたけれど、結局最後まで修行を耐え抜いたのは愛弟子だけだった。たった一人残った弟子。女の子にはきつかっただろうに、彼女はただ一人耐え抜いて、立派に巣立って。
ーーウツシさん。
ーーアマネ。
「う、ぁ……!」
ーーずっと、おそばにいますから。
薄青い闇の中、天上の星々よりも強く輝く双眸といつの間にか冷え切っていた心をほぐす柔らかな微笑み。慈愛も親愛も情愛も、その全てが与えられ受け入れてもらえる安心感。
どうしてこんな時にと唇を噛む。走馬灯のように記憶が脳を廻り溢れて止まらない。
……ただ、守りたかっただけなのに。
俯いた顔から、ぽたりぽたりと雫が垂れた。
守るために、力を与えた。それが間違っていたのだろうか。力がなければ守れない。だからウツシがいなくとも、最低限その身を守れるように鍛えてきた。それが、その考え方が間違いだったのだろうか。
ずっとそばにいると言ってくれた、たった一人の子だ。その言葉通り、血を吐く思いをしながら、死の淵に立つこともありながら、そばにいるという約束を守り続けてくれた。
人々にとっては取るに足りない平凡な日々でも、ウツシにとっては瞬く星々に囲まれるような輝きに満ちた日々だったのに。
「っ、ぅ……ぁ、」
堪え切れなかった嗚咽が喉から溢れる。初めて振るった時以来一度も震えたことのない、刃を握る手がかたかたと鍔を鳴らす。
よく研がれた刃は痛みを感じさせることもなく、頸を落とすだろう。
……いやだ。
落ちた頸はきっと綺麗で、その顔は眠りに落ちた時のまま青ざめている。目元を覆う砕いた真珠のような輝きに艶やかな唇は、さぞや美しい死化粧となるだろう。
「ウツシ」
「どう、して……どうして、この子なんですか」
どこかで安心していた。慢心していた。天性の才と弛まぬ努力によって磨かれた狩猟能力と戦闘感覚は、どんな時も彼女に勝利をもたらしてきた。
多くの人々を救った。
多くの生活を護った。
多くの奇跡を起こした。
自然の営みという人の定めた秩序を維持するため。
ーーそして、その秩序によって殺されるのだ。
彼女の献身の末を怪物化による討伐などという不名誉で終わらせてはいけない。何よりも狩人である少女の師として、情を交わした相手として、己だけはその尊厳を守らなければならない。
でも、本当にそれは、アマネの命と引き換えにしても?
ーーお前さん、何があってもアマネを選べるニャ?
不意に、ゼンチの言葉が過ぎった。俺の言う守りたいは、一体何からだったのか。
「ーーできない」
振り上げた忍刀は黒絹を揺らし、白い肌に傷を付けることなく地面に刺さる。抱いた疑問は怒りと共にウツシの心を満たした。
「ウツシ!」
「できない。死なせたくない」
ただ、隣で笑っていてほしかった。約束を交わした日のように、穏やかに、嫋やかに。
たとえ身体が竜へと転じようとも、あの子は俺を見て微笑んでいた。そばにいることを望んでくれていたのだ。けれどーーそれでも世界がアマネを殺すと言うのなら、俺が世界を殺してやろう。
「あっはっは! 吹っ切れたでゲコねぇ」
「すみません、里長ーー」
「ゴコク殿笑ってる場合では、おい待て! ウツシーー」
硬い鉄がぶつかり合う甲高い音が響く。予備動作もなく切り掛かったゴコクを、どの武器よりも鋭い双刃が受け止めていた。金属が打ち合い夜闇に火花が散る。
その騒ぎに気が付いたのか、遠くから使者が走り寄る。玉石の跳ねる音が風に乗って耳に届くと、ゴコクはぐ、とウツシを睨み上げ「安寧はない」と低く告げた。
「生命の根付かぬ土地で息を潜める一生に耐えられるゲコか」
「アマネがいるなら、そこが俺の楽土です」
「己の全てを捧げた娘から、死なせてくれと懇願されても?」
「いらない命ならばこそ、俺が貰い受けましょう」
「いつか後悔するゲコよ。お前はきっと置いていく側だから」
短刀の連撃は続く。悲哀と憐憫に満ちたゴコクの目に貫かれる。遠い未来の自分に睨まれたような錯覚にウツシは苦く笑った。
「それでも、思い出にはできなかった。そうでしょう?」
20230422
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