遍く照らす、 | ナノ

遍く照らす、 / 禍群の唄
02



 墨を垂らしたような曇り空が広がる。朧に浮かぶ月すらない、朔の夜。アマネが一人眠る庵へと繋がる川は、流れは穏やかだが水面は黒く、まるでこのまま空へ繋がっているような錯覚すら起こした。
 山からは冷たい風が吹き下し、空は黒い靄がかったような雲に覆われている。直に雨が降るのだろう。庵のある小島へと、山へと近づくごとに土の匂いが濃くなっていく。ゴコクとフゲンは赤く揺らぐ提灯を携え、使者と共に川を渡っていた。
 中洲と呼ぶには大きく、島とするには小さな陸地。はみ出すように伸びる木々の下には小さな入江があり、里から川を上ると舟は自然とそこへ吸い込まれていく。桟橋とも呼べぬ岩場に降りるその足下では、水中に群生する白い小花が揺れている。縄で繋いだ小舟三隻がぶつかり合い立てる低い音を聞きながら、フゲン達は庵へと足を進めた。
 手にした提灯の灯りがゴコクたちの周囲を覆う。庭先では枯れた草花が敷き藁のように重なり合っていた。冷たい夜気が水気を含みしっとりと肌にまとわりつく。辺りは涼やかと言うにはやや激しい水音と、玉石を踏む軋んだ音だけが響いている。
 庵の前に着くと、使者はあまりの静けさに嫌に胸が騒いだ。粘度のある闇が迫り、身体のすぐそばを囲まれているような気配さえする。使者が思わず「随分と静かですね」と呟くと、ゴコクは一度視線を滑らせ、長年の水気で腐りかけた戸を開けた。「アマネ」と名を呼びながら敷居を跨ぐゴコクに続こうとして、踏みとどまる。
 奥に垂らされた簾が揺れている。
「貴殿は、外にいてもらえるだろうか」
中を覗いた使者へフゲンが声をかけた。その手は外套の上から肩を掴んでいる。振り向いた使者は「家族なんだ」と沈痛な面持ちで告げるフゲンを見ると、一歩足を引いた。争うよりも、寄り添う姿勢を見せる方が良いと判断してのことだ。
「……確認はします。規定ですので」
「気遣い感謝する」
 目礼するフゲンに使者は頭巾を深く被り、後ろを向いた。カムラの里の民特有の、満月のような眼差しが背に刺さるのを感じる。
「処理が終わりましたらお声がけください」
 口早に言い、玉石を軋む音を立てながら元来た道を戻っていく。灯りの輪から外れると、途端に暗い夜の薄膜が後を追ってきた。
 使者の姿が闇に溶けると、フゲンの視線も同様に外れた。暗闇に遮られたのだ。薄ら寒い夜の膜が肌を舐めるのを振り切るように、使者は遠くに里の灯りが見える岩場まで足早に進む。
 少しずつ慣れてくると、夜の闇に響く玉石を踏む規則的な音が耳に染み入る。川の音は涼やかで、色付いた葉が落ちる軽い音は風情を感じさせた。広くはない島だ。闇は濃くとも歩けばすぐに目的地に辿り着いた。
 木を叩く低い音が聞こえる。小さな入江とも言えぬ、人工的に積み上げられた岩場に使者は腰を下ろした。遠くに見える薄ぼんやりとした里の灯りは、暗い島からは灯台のように見える。狩場の方からは竜が吼える声が聞こえてくる。
 夜の静けさに響くそれに、僅かな心細さを感じながら燃えるような里の灯りを見ていると、はたと気がついた。そして、ぞっと怖気(おぞけ)が肌を這う。気づいてしまえば胃の腑が凍えるようだった。
 玉石の音は甲高く軽やかだった。川の水音も涼しげで、色付いた葉は目に鮮やかだ。けれどそれらは全て、生きていない。普通は聞こえる音がしないのだ。枯れ草の下で冬支度をする虫共の声も、夜を歌う蛙の唄も、夜空を滑るフクズクの声も。森のざわめきすらも遠く、遠く。
 ーーここは、生きた物の音だけが、しなかった。


 使者の姿が闇に消えたのを確認し、フゲンも庵の中へと入る。中は囲炉裏が意味をなさないほど、氷室のように冷え切っていた。
 上げた簾の奥では鈍く光る鱗の中に変わらず輝く星の炎を認め、フゲンは努めていつものように破顔しようとして、喉の奥がきつく締め付けられた。
「ァ……ト、オ繧オ」
 里長、と口が形作る。思い出の中の優しげな声と重なるのは、それとは異なる奇怪に響く歪な声だ。「そうだ」と頷くと、銀の炎が弧を描く。まだ、人の意識が残っていることに安堵し、そして絶望した。
「アマネ……夕餉を持って来たゲコよ」
 ゴコクが差し出したのは、竹筒に入った重湯だった。まだ温かなうちに椀へと移し、匙で口と思われる裂け目を湿らせる。まるで死に際の病人のような姿にフゲンの胸は一層、鉛を飲んだように重たくなった。
 アマネが口に入れるものには、全て眠魚かネムリ草を混ぜている。今ゴコクが匙で掬う重湯にも眠魚の出汁が使われている。今回は、そこに乾燥したネムリ草も混ぜ込んでいた。これを飲めばもう二度と目覚めない。そうしたら胴と頸を離し、完全に息を止めてから使者へと引き渡す。
 本当はたたらに沈めて、永劫、その火を絶やさぬようにしてやりたかった。緩やかに朽ちて、自然に還ることすらも娘にはもう許されていない。
 猛き炎と呼ばれた通りにあっという間に燃えて尽きてしまった。何も、その生まで炎のようでなくとも良かったろうに。それとも炎と名付け、呼び称えてしまったのが悪かったのだろうか。そう、水が滲むような視界の中でフゲンは思った。
「ーーィ、ぉか、ンハ」
「っ、アマネ、すまんゲコ、うぅっ……」
 少しづつ、銀の炎から熱が失われていく。視線の先は薄く開かれた天窓に固定されている。
 ゴコクは先を丸く研がれた爪ごと歪な竜の手を握りしめ、嗄れた声で謝り続けた。
 それからしばらくして、フゲンが「ゴコク殿」と声をかけ、肩に手を触れる。ゴコクは項垂れるように頷くと、握った手を離し、アマネの瞼に手を当て虚ろに開いた目を閉ざした。ずっと眠っていたというのに、目の下の鱗は黒く隈のようである。
 二度と覚めることのない深い眠りに落ちた娘の手を握る老いた竜人の背は、一回り小さく見えた。
 声もなく涙を流すゴコクが小太刀を抜く。天の川のような刃文が冷たく輝く銘のない刀は、ここにいないハモンが魂を込めて打った業物だ。たとえ意識があったとしても、痛みを感じさせることなく首を落とすであろう。
 白く美しい刀身に竜の鱗が映りこむ。
 切っ先を弾く硬い外殻を一太刀でたち切るため、ゴコクが腕に力を込めた、その時。
「何を、してるんですか……里長、ゴコク様」
 フゲンが弾かれたように振り返った。戸口に、呆然とした顔のウツシが立ち竦んでいた。あまりに暗い夜の世界で、雲間から覗く月明かりが男の姿を浮かび上がらせる。その光は戸口を通り、簾の奥までをも柔らかな青色に包んだ。
「ウツシ、なぜ、」
「そう……お主も間が悪いゲコね」
「アマネから離れてください」
 嫌な予感にウツシの心臓は音を立て鼓動を早める。指先は震え、息が荒くなっていく。「すまぬ、ウツシーー」そう言ったフゲンが目を逸らした。
「何をしてるんです、御二方とも」
 しんとした夜の空気にウツシの怒気が広がる。ゴコクの手に白い刀、少し長い首掻刀があることに気付くと、翔蟲もなく崖上から宙に放り出されたような恐怖がウツシの足元からぞわりと這い上がった。ウツシを視界に入れようともしないゴコクにも、奥で横たわる顔の見えないアマネにも、生きた音がしない外にも。その全てがウツシの不安を煽り、焦燥に駆られる。
「何をしているのかと聞いているんです!」
「ーー殺すんでゲコ」
 低く淡々と告げられたそれに、ウツシは一瞬呼吸を忘れた。足先から冷えていく。喉は言葉を無くしたように、空気の音を漏れさせる。
「どう、して……この子は、誰に迷惑をかけたわけでも……依頼だって俺が、っ、食料の問題なら俺が持ってきます、だから、だから……」
「今のアマネは、存在するだけで他の生き物に影響を及ぼす。それはあの子が死なぬ限り消えない、呪いのようなものゲコ」
 今はこの離れ小島の中だけでよくとも、ゆっくりと空気を侵し水を汚し、いつか必ず生態系に傷をつける。
「生きていてほしいと願うことは、間違いではないゲコ。だがそれはワシ達の願い。人でなくなる苦痛を、不幸を与え続けることと引き換えに叶えてもらう、願いの押し付けに過ぎぬよ」
「違う……違います。あの子だって、一緒にいるって……」
「あの子はもう、人の言葉が聞き取れんゲコ」
「そんな……」
 今思えば、ウツシが聞いた、呼ばれた気がしてと言った声は、初めて発する言語で語るような音をしていたような、気がした。
「これからアマネが受ける苦痛は、とても想像できる代物じゃないゲコ。それは到底、脆弱で未熟な短命種の精神に耐えられるものではない。いくら強靭な肉体と不屈の精神を持つハンターとて同じこと。ウツシ、お前もアマネも人の子ゲコ。怪物(モンスター)として処理されるくらいであれば、人のまま死なせてやらねばならんよ」
「ーーでしたら、俺がやります。俺に、させてください」
 人から随分と遠ざかってしまったアマネの身体のことはよく見ていたが、耳の奥ではまだ、ずっとそばにいるという約束がまだ木霊している。
「約束したでしょう、ゴコク様。俺に、彼女の一生をくれると。だから怨虎竜の時も、風神龍の時も、淵源だって送り出したんです。……ここで、俺の手で終わらせられなかったら、きっと一生引きずり続けますよ。ゴコク様、俺に隠れて済まそうとしてたでしょう? そうなればどこかで生きているんじゃないかってカムラを一生疑うことになる。里守として、それは避けたい」
 ゆっくりと振り向いたゴコクの手にある白い刀が、月明かりを弾く。
「俺に、この子の命をください」
 ウツシはそう言うと、求婚の許可を得て以来振りに、ゴコクに深く頭を下げた。
 

20220808

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