遍く照らす、 | ナノ

遍く照らす、 / 
お見合い




 遠く響く鹿威しの音が耳に涼しい。水琴窟の玲瓏たる音色は心を洗い流すようだ。静謐に包まれた森の澄んだ空気は深く肺を満たし、温泉街から漂う微かな硫黄の匂いは決して不快ではなく、むしろ風情を感じられた。覗く山々は雄大で、渓流の緑に紅葉の赤がよく映えている。いずれもカムラとはまた違う明媚な風景である。
 帯を飾り結びにしてもらいながら、アマネは一等眺望が良いとされる客室にいた。美しい自然を映す星に喩えられる銀灰の目は、今は燃える星の輝きを失い浜辺に置き去りにされた魚のようではあるが。
 カムラの里で日夜狩場を駆け回るアマネがなぜ近隣のユクモの村にいるかと言うと、里長の紹介で見合いをすることになったのだ。アマネは断るつもりでいたが、確かに受けたという証明が必要らしい。そうすれば以降の見合いは全て何かしら気に入らないと理由を付けて断ることが容易になるからだと言う。
 だからアマネはただ着飾られ、景色の良いユクモの保養地でのんびり美味しいものを食べて帰るだけで良かった。それにユクモを治める村長が妙齢の竜人族の女性ということもあり、付き添いとしてヒノエが同行している。何か聞きたいことなどあるのだろう。そして見合い後にはミノトとアヤメも合流予定だ。せっかくだからと、泊まって温泉を楽しんで帰る許可も里長直々におりていた。
 村長に挨拶も終え、屋台で飲食物をたらふく買い込んだアマネとヒノエは早々に宿へと入り、数種類の温泉を楽しんだ。見合い自体は次の日の夕方であるため、それまで行儀は悪いがごろごろしながら串物を食べたり、ユクモのドリンクに舌鼓を打ったり、寝転びながら持ち込んだ巻物を眺めつつ温泉饅頭を齧ったりと、人目のある里ではできないくつろぎ方で二人は束の間の温泉旅行を満喫していた。
 していたのだが、その翌日。見合いの用意にと呼ばれた座敷で、なぜかヒノエではなくウツシがいた。アマネは思わず言葉をなくした。かろうじて「どうして」と掠れた声が出た。ウツシはそれに応えるでもなく、怪我をしたアマネを甲斐甲斐しく世話する時のような、少し嬉しそうな顔でにっこりと微笑んだ。つまりちょっと怒っている顔である。
 実は、アマネは見合いをする事をウツシに告げていない。ウツシとは師弟関係ではあれど、それ以上の特段特別な関係ではなかった。けれど、ウツシ本人に自覚があるかはわからないが、師弟としての枠を越え、ウツシから異性として性的にも好かれていることは自覚していたのだ。それに対して操立てしているわけでは別段ないが、内緒で見合いをすることへの後ろめたさを里長へと相談したところ、ただの女だけでの温泉旅行と偽って送り出してくれたのだった。
 相手はまさかウツシかと勘ぐったが、事前にフゲンから相手はユクモの男だと聞いていたことを思い出し、踏みとどまる。もしかしたらウツシも見合いかもしれない。
 けれどその考えは、ウツシ本人により早々に打ち砕かれた。
「キミの忘れ物を届けに。里長からだよ」
 女将に風呂敷を手渡しながらウツシが言った。色男の微笑に女将の頬が甘く染まる。包まれていたのは、銀糸を織り込み作られた見事な袋帯であった。ヒノエが事前に預けていたのは金の帯である。見事な色違いに、アマネはどちらも変わらないと思った。
 そして冒頭に戻る。

 美味しいものは食べた。この後また美味しいものを食べて、ヒノエとミノト、アヤメと温泉でゆっくりするつもりだったのだが、アマネは内心焦っていた。手のひらには汗が滲んでいる。これでは食事の味もわからない。
「出来上がりましたよ。本当にとてもお綺麗なので、きっと皆さんびっくりしますわ」
「私共がずっと眺めていたいくらいです」
「ふふ、ありがとうございます」
 美しく着飾られることは、別に嫌ではない。カムラに行く理由もなくハンターとして身を立てる道がなければきっと、王国に近い行商人集団の元締めである義父の下で似たように過ごしていたと思うからだ。アマネはどこか無自覚で純朴なところのあるウツシとは異なり、自身の容姿が人より目立ち好意的に見られることの自覚は大いにあった。アマネが他人からの視線と機微に聡くなるよう躾けたのは、美貌に振り回され続ける人生を送った、全く同じ貌をした今は亡き生母である。
「付き添いの方、お入りください」
 す、と襖の開く音に振り返ると、戸を開けたウツシの動きが止まった。
 目は縫い付けられたように一点を見て、逸らさない。
 顔に走る傷を差し引いても、アマネの顔は美しい。美しい顔の女が着飾れば、誰もがため息をつくことは経験上知っている。それも、今回は見合いに慣れている旅館の者が仕上げたのだ。自身の仕上がりに不安はない。だが、それでも師として、一人の人間として傍で支えることを望んだ男の反応だけは、別だった。
「どうでしょうか……」
 反応を返さないウツシにアマネが不安げに眉を下げた。ウツシは視線を下げると、困り顔で頬を掻く。芳しくない反応に、アマネは益々不安な気持ちになった。
 ……好みではなかったのだろうか。
 そう思えば、昔からウツシは彩度の低いものをアマネに選ぶことが多かったと、ふと思い出す。とはいえ、今回ばかりは見合いをする相手はウツシではないのでそれほど気にすることもないのだが。
 それでも着飾ればやはり、褒められたいと思ってしまう。
「あ、あぁ……そうだね、綺麗だよ」
 一方で、生返事を返すウツシの目に映ったものは、まさに美しい炎そのものだった。火の女神とはこのような姿をしているのかと思うほどに。まさに夢に見るほどの艶やかな焔が、そこにあった。
 裾に向かうほど墨色のぼかしが入った銀朱の振袖に、祓え櫻の紋が浮かぶ銀が織り込まれた豪奢な帯だ。この帯を届けるためにウツシは遥々カムラから翔んできた。フゲンから告げられた、里から見合いに出た娘に持たせるのを忘れたという、思わずウツシが青ざめた理由により。何せ、聞けばその娘はもうユクモにいて、見合いは昼だと言うのだから、ウツシは呼び出された夜明けからカムラを文字通りすっ飛んで出て行ったのだ。その辺の飛脚や里の郵便屋に頼むより、ウツシが空を駆けた方がよっぽど速かった。
 それなのに、いざ着いてみれば見合いをする娘というのが愛弟子であったことを知り、ウツシは少々虫の居所が悪くなった。よく考えなくとも、里からユクモ村へと旅立ったのはアマネとヒノエだけで、さらにどちらが見合いをするかと言えば、届く釣書の量からアマネであることはすぐにわかる。それに持たせるのを忘れたと告げたフゲンの様子は、妙に堂々としていた気もする。
「あの、教官?」
「本当に……すごく似合っているよ。赤はあまり着ない色だから、なんだか新鮮だね」
 カムラの里では藍染が主流である。はっきりとした紅を身につけるのは、巫女であるヒノエとミノトだけだった。アマネも普段身に纏う装束は墨のように濃い藍染だ。
「落ち着かないので青か紺が良かったのですけど、ヒノエと里長がユクモの紅葉に合わせたそうです」
 着物がそうであるように、袖から覗く襦袢も緋色に染められている。銀朱の振袖には金糸や銀糸、生地と同色の絹糸で飛び立つ蝶の群れが刺繍され、遠目から見るとまさに立ち上る焔の灯火である。
 アマネを表しながら、同じく火を冠する相手の色にも合わせているのだろう。
 アマネが見合いをするということは知らされていなかったが、その相手は自体はウツシは早くから知っていた。誰かと見合いを、という話はしばらく前に本人から聞いている。なにせ、交流を深めるために手っ取り早いのは見合いだ。血縁を結ぶことで繋がりをより深めるのである。
失礼いたします」
 どこかほろ苦い気持ちでウツシがアマネを眺めていると、部屋の間口で膝をついた女将が丁寧に礼をした。
「ご用意いただいたものは全て着付けいたしましたが、もし何か足したいものがあればお好きにお選びください。お嬢様、とってもお綺麗ですから何でもお似合いになりますよ」
 きっと、何かしら忘れる客がいるのだろう。新たに開かれた襖の奥は物置になっていたようで、着物から帯留め、足袋に至るまで、全てが七色以上揃えられていた。
「お時間までまだございますから、ご自由にお過ごしください。では、また後ほど参ります」
 女将はそう言うと、美しい所作で礼をし、着付けをした者達を引き連れて部屋を後にした。


 ウツシが畳の上を歩くと、背に垂れた濃い鼠色の布がその歩みに合わせて揺れ動く。時折くるりと振り向きアマネと見比べながら、吟味するように戸棚の前を行ったり来たりしている。
 ややあって、浅葱と濃紺の籠手が上下に動きながら鮮やかな布を数枚手に取る。色彩豊かな装飾品は先ほど見かけた時より、なぜだか幾分彩度が高く見えた。
「そうだね……」
 ふむ、と顎に手を当てて考え込んだウツシがアマネと手にした色彩の束を見比べる。着物に当てると手にした布を棚に戻し、また別の布を手に戻ってきた。それを何回か繰り返した後、ようやく何か納得したのだろう。ウツシは難しい顔から一転、薄く笑みを浮かべて姿見の前へと手を引いた。
「これとか、足すといいんじゃないかな」
 ウツシはアマネの背後に回ると、祝い事らしい、朱や金銀でまとめた中に青緑の伊達衿を重ねた。裏は艶のある黒地をしていて、少し渋めに染められたそれは、確かに差し色としてよりアマネをより華やかに見せた。
「裏返して反対にすることもできるよ」
 そう言って手を返す。黒を表に出すことで顔まわりが締まって見えるような気がした。
 鏡の中のアマネに向かって「どうかな」とウツシが囁く。見た目よりもずっと近い声に、跳ねそうになる肩をぐっと堪えた。
 アマネが辛うじて「お見立て通りに」と呟くと、ウツシは再度薄く笑みを浮かべた。見慣れない大人の顔に、心臓が音を立てる。
「じゃあ、これにしよう」
 そう低く囁くと、熱を持った首筋に、不意に冷えた指先が触れた。思わず首をすくめたアマネに「動かないで」と声が落ちる。
 青緑の伊達襟を持った手は、衿の間から入り込むと襦袢の上を滑るように撫で下ろされる。するりと侵入した手の熱さに心臓が再び音を立てる。
 ウツシは気づいているのかいないのか、素知らぬ顔で衿を乱さないよう慎重に、けれど手際よく差し込んでいく。
「……なんだか、手慣れてますね」
「そうでもないさ。崩したらどうしようか、結構緊張してるんだよ」
 帯揚げの手前、胸の下に手が入る。胸を押す鈍い感覚に、思わずはく、と息がこぼれた。それにウツシが「息を吸って」と指示を出す。アマネは言われた通りに、けれど浅く吸い込み息を止めた。
「赤も似合うけど、やっぱりキミに一番似合うのは髪と同じ宵の空に似た墨色だ」
 帯も小物も合わせて揃えて、白い顔に浮かぶ星の瞳を強調させるような、艶のある無彩色に。炎はやがて燃え尽きてしまうから、いつまでも天に輝いている、闇に浮かぶ一番星を思わせる出で立ちを。
「今度は、俺に選ばせてね」
 鏡の中の男がうっそりと笑む。肩に手を置かれた白い貌の女の首には、男の面と同じ青緑の布が、燃える炎の中で冷ややかに主張していた。




 鹿威しの音が遠く聞こえる。水音は涼しげで、木漏れ日の差す紅葉川が目に鮮やかだ。宴席までは川のように白い玉石が敷かれており、その上を軽く軋む音を立たせながら歩いていく。錦魚が悠々と泳いでいる小さな池を過ぎると、大きな赤い傘に、赤い敷き布が目に映った。その傘の下、男の影が美しい青紅葉を見上げている。
 先に席に着いたのであろう、見合いの席にいた男がよく見える距離まで近づくと、アマネは思わず「あっ」と声を上げた。それは相手も同じだったようで、振り向いた顔は驚きに目を見開いている。
 ぼかし染めの袴に、馴染みのある墨染のように深い藍染の上衣。その下から覗く襦袢は目に痛いほど白く、明暗の差で一層眩しく見える。鼠色の羽織に取り付けられた墨色の羽織紐は真珠大の青碧色のとんぼ玉が連なり下げられている。
 碧玉に似た玉は、どこのものだろうか。ユクモで手に入るのであればと、無意識にウツシが身につけた姿を想起しそうになって、アマネはそれを振り払うように席に着いた。
「あなたでしたか、ヒバサさん」
 ヒバサはいつもより丁寧にまとめた髪を乱雑にき上げると、どさりと腰を落とした。その足には、濃い鼠色の足袋の上で鮮やかに光る翡翠の玉を連ねた足飾りが揺れている。少し前、似たものを見たような気がしたアマネは首を傾げると、「あぁ」と小さく声をあげた。雷狼竜と、同じだったのだ。
「もしかして、モンジュお姉様もいらっしゃいます?」
「ということはウツシもか?」




 アマネとヒバサの見合いが無事に破談となる少し前。
 淡い薄紅の天蓋に同じ色の花筏が目に鮮やかなカムラの里の集会所。そこでウツシはひらりと花弁よりも軽やかに、露台へとテッカちゃんに日光浴をさせているゴコクの真後ろへと、飛び降りた。
 音も振動も感じさせない着地に、すっかり気持ちよくまどろんでいる鬼蛙の幼体は全く気づかない。
「ゴコク様」
「おう、ウツシ。いつも言っとるけど気配消して背後に立つなゲコ。ちょっとびっくりよ」
 愛らしいテッカちゃんの寝顔に筆を走らせるゴコクは、その筆先を一寸も揺らすことなく背後のウツシへ声を返した。
「で、何か用ゲコ? アマネなら渓流見学でまだ戻らんよ」
「それは存じてます。俺の釣書ってまだ予備ありましたっけ」
 今朝届いたアマネからの文の内容をなぜ知っているのか、と声が出そうになったが、ゴコクはそれよりも、釣書と聞くと早く処分しろとばかりに眉根を寄せていた男のいつもと違う反応に首を傾げた。
「うん? あるけど、どうしたゲコ」
 懐からウツシの釣書を取り出す。いつ何時必要になるかわからないので、全員分持ち歩いているのである。それをひょいとつまみあげたウツシに、ついに乗り気になったのだろうかと目が開く。けれど、即座に内心で首を振った。いやいやまさか。これは死んでも弟子離れができない男なので
「ちょっと申し込みに」
「えっ」 颯爽と踵を返した男は、あっという間に花吹雪に溶けて消えた。
 直後、男の影と入れ替わるように、がたがたと地響きが露台に伝わる。
「な、なんでゲコ?」
 地震と間違えるような振動に、健やかにお昼寝をしていた鬼蛙の幼体が丸い体をむくりと持ち上げた。ゴコクはよしよしと、緩んだ頬で頭を撫でようと手を伸ばす。すると、ぴょん、と重さを感じさせないほど軽やかに宙を飛んだ。幼体ながらも成体を思わせる力強い動きに、やだ、うちの子天才……?とゴコクの顔がさらに緩んだ、その瞬間。
「ゴーコクーさまぁー!」
「ゲコォ!?」
 ゴコクもまた、軽やかに宙を飛んでいた。いつかの百竜夜行での飛距離を思わせる見事な吹っ飛び。一足先に華麗に着地を決めた幼体がぴょんぴょん跳ねながら定位置へと戻っていく。
 鮮やかな青い空に、薄紅色がよく映えている。綺麗だなぁと意識を飛ばしかけたその背中に、フゲンにどこか似た、豪快な声が響いた。
「私の釣書って、まだありますか!!」




20211206

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