遍く照らす、 | ナノ

遍く照らす、 / 禍群の唄
変容



 カムラの里のハンターが雷神龍を打ち倒して、早数日。長年苦しめられてきた災禍から解放され、里内は行き交う観光客やハンターで賑わい、かつてのような活気を取り戻している。未知の脅威を遠ざけたとして、程なくしてギルドからも報奨が送られた。
 しかし、それでもカムラの里は諸手を挙げての祝宴とはならなかった。
 里の衆が時折、憂いを帯びた視線を向けるその先。大通りに面していても集会場とは反対に位置するため人気の少ない区画にある、水車の回る茅葺小屋。そこに住まう里専属のハンター、対の古龍討伐という偉業を成し遂げた彼女を、カムラの民は出迎えた者以外、誰も姿を見ていないからだ。
 出迎えた一人であるウツシは、その時のアマネの姿を眠るたび夢に見る。
 夜遅くに帰還したアマネヒノエやミノト、ヨモギ、コミツといった彼女と親しい面々が一番に取り囲む。その彼らの言葉に応えずいつまでも狐面を被っているからどうしたのかと、ウツシは濃藍の上衣を纏った背に触れた。骨に触れるような、硬い感触に違和感を覚えた。その直後、その手が、生暖かいもので滑って。アマネの身体が崩れるように落ちていく。結び目が緩み外れ落ちた面の下から、半紙のような色の貌に浮かぶ虚ろな銀の双眸が、ウツシを見上げて、そうして
 そこから先のことを、ウツシはよく覚えていない。気がつけば、赤く濡れた手を呆然と見遣るウツシの足を、いつの間にか足元にいたゼンチが柔い肉球で叩き、意識を現実へと引き戻した。
 聞けば、絡繰の糸が切れたように倒れた後、アマネは意識を失った状態で嘔吐、吐血を繰り返した。診療所の布団は前回の雷神龍戦の余波で出た負傷者で埋まっていることを知っていたウツシは、アマネを抱え自宅へと翔んで運び込んだという。呼ばれて急いで現れたゼンチはまず感染症を疑い、部屋の消毒と下ろした簾の中で除菌効果のある香を薫きしめた後、アマネとゼンチ以外の全員を追い出したそうだ。
 家から出てきたゼンチは負傷による細菌感染と面会謝絶とだけウツシに告げ、里長達の下へと報告に行ってしまった。
 それから毎晩、夜間の哨戒の任を終えるとウツシは水車小屋の屋根の上でアマネの回復を待っている。余所者が近くを彷徨く気配を感じていたため、それらを牽制するという意味合いもあった。だから時折往診に訪れたゼンチが物言いたげな眼差しで見上げるのも知らぬふりをして。高熱にうなされている手を握ることもできず、最後に触れた、やけに硬い感触を思い出しながら。ずっと、ずっと、待ち続けていた。
 その日の晩も屋根の上でアマネの生存を確かめていた。声は聞こえないが、発する音で生きていること、どのような状態なのかはある程度推測することができる。
 白み始めた空に白い月が飲まれる頃になって、ようやくアマネが眠ったことを感じ取ったウツシは帰ろうと立ち上がる。翔蟲を放つその背に向かって、突然声がかけられた。
「ウツシ」
 振り返ると、アイルー特有の大きく円らな瞳がウツシをじっと見上げている。
お前さん、何があってもアマネを選べるニャ?」
 何を言っているんだと思った。考えるまでもなく、反射的にウツシは頷いていた。何を当たり前のことをと、口が開く。弟子のことを選ばない師などいるものか、と。
「選びますよ。俺の愛弟子ですから、」
 けれど、その返答を聞いたゼンチは緩やかに首を振る。そうじゃないと、そういうことではないと否定を重ねる。ではどういうことかとウツシが屋根から飛び降りると、ゼンチは暫し逡巡した後、静かに息を吐きウツシに麻袋に詰まった薬草を差し出した。
「今のは忘れるニャ。……ウツシは今晩も来るのかニャ?」
「ええ、そのつもりですが」
「これを必ず面の中に詰め、面を外さないと約束するなら、会ってもいいニャ」
 フクズクの声とともに遠くの空から朝日が昇る。門に遮られた陽は水車小屋を照らすことなく濃い影を差し、すぐ山の向こうからは暗い雲が迫り、遠雷が響いた。




 雨上がりの後の、しっとりとした夜の空気が肌を舐める。
 夜もすっかり更けた頃、ウツシは風音ひとつ立たせずに里の中空を翔けていた。目指す場所はアマネが長年住居として使っている、水車のある粉挽き小屋。里の中央、たたら場のすぐ隣にありながら庄屋を固めた区域にあるそこは、夜間はぱったりと人の気配がなくなる。門に一番近いため、かつては里守が交代で宿直していた小屋でもあったし、火に近く川の下流へと流す水路であったため隔離小屋としても使われていた。
 年代を感じる苔生した茅葺きへとウツシが足を下ろすと、昼から続く雨で水気を吸った藁と苔が浅く沈み込む。
 誰も入らないように外からも施錠された戸には見向きもせず、ウツシは軽やかな動作で薄く開いた天窓へとその身を滑り込ませた。
 薄く月明かりが差している屋内は常の状態と比べると遥かに暗く、湿度が高い。けれど蒸し暑くはなく、むしろ水気が近いせいか冷気すら感じるほど肌寒かった。
 ウツシは簾を二重に下ろした奥の寝室の手前まで足を進めると、足元の縁に腰掛けた。土間から砂礫が上がったのか、わずかにじゃりじゃりとした感触が手のひらに刺さる。
「アマネ」
 常の溌剌とした快活さは鳴りを潜めた、低く穏やかな囁き声が雷狼竜を模した面の中にこもる。
「アマネ……」
 簾にかけた指先が連なる薄い竹をなぞる。葉擦れのような音に、奥の暗がりの空気が動いた。その気配を感じ取ったウツシは、再び小さくアマネの名を呼ぶ。
 喘鳴と共に、声を出そうとして失敗したような呻き声が聞こえてくる。ウツシはそれにも律儀に言葉を返した。会話にもならない、反応の応酬を何度も繰り返す。
「きょう、かん」
 ウツシの耳に、隙間風と間違えるような、か細い枯れた声が届いた。
「ああ、ああ……俺だよ、アマネ」
 胸の奥が圧搾されたように苦しくなる。あれほど生命力に満ちていた、燃え盛る炎の如き命が今や灰のような有様へと変貌してしまったことに嘆息する。
 けれど、それと同時に。
 ……これで、もう。
 そうまでしても里へと、自身の下へと戻ってきてくれたことへの深い安堵が胸に広がって。
 ……しばらくの、間は、
 否。暫くと言わず、ずっと。
 ……ずっと?
教官」
「ぁ、」
 きっと雷撃で喉が焼けていたのだろう。少し嗄れた、けれど耳に馴染む優しい声にウツシの肩が跳ねた。俯いていた顔を上げると、簾の奥、月明かりも届かない場所で薄ぼんやりとした光が瞬いている。
「また会えて、嬉しいです」
 綿の詰まった布団が擦れる音が耳を通り過ぎる。
 その先を願うのは良くないことだと、それに気がついたウツシの思考が止まる。口の中はからからに渇き、手の中は冷たく湿っていた。
「俺もだよ。キミが帰ってくることを諦めないでくれて、良かった。どうして帰還時に怪我を申告しなかったんだとか、色々小言はあるけどね」
 こぽりこぽりと、胸の奥で沈み込んでいた黒い澱が音を立てて浮き上がり、そして沈んでいく。師としても恋人としてもあるまじき考えに、ウツシはゆるりと頭を振ってそれを追い払った。そんなことよりも、今は話したいことがたくさんあるのだ。半月にも満たない間の別れだったが、これまでは殆ど毎日顔を合わせていた。アマネが狩猟で留守にする時だって文のやりとりは欠かさなかった。いつだって手を伸ばせば届く距離にいたのだ。たった半月の間にも、聞いてほしいことはたくさんあった。それと同じだけ聞きたいことも、見せたいものも。分かち合いたいことが、たくさん、たくさん。
「アマネ、」
「怪我なんて、してません」
 拗ねたような声音に昔を思い出したウツシは口元を緩ませた。修行をしていた頃も、擦りむいた膝を隠し涙の滲む目で必死にウツシを見上げていた。泣いてない、怪我なんてしていない、まだできると言い張って。懸命に駆け上がろうとした小さな灯火。
「はいはい」
「回復薬で、治らないようなけが、していませんでした」
「そうかうん?」
「ほんとう、です」
 それは、妙な言い回しだった。問いただそうとしたウツシが言葉を飲み込む。ざわりと揺れた空気に、アマネはのんびりとした声音でそういえばと言葉を続けた。
「いつも、外にいてくれましたよね」
「……はは、バレてた?」
「お忙しいのは、わかってますから。もっときちんと休んでください」
「俺の愛弟子。キミといられれば、それだけで安まるよ」
「他の休憩方法も、見つけないとだめです」
「他の方法かぁ」
 ウツシの指先が簾の縁に触れた。つつ、と編み紐をなぞり上げた先で、思案しながら結び目を弄る。
 寝食、鍛錬、狩猟を繰り返すだけの日々だった。面を彫る時間は昂ぶった精神を落ち着けるためのもので。それが、アマネを与えられてから温もりを分け合うことの優しさを知った。どんな時でも隣に体温があることの尊さを知ってしまった。
「……キミに、触れたいな」
 こぼれた声は、水面に落ちた朝露のように静かに二人の間に沁み込んだ。面の中には感染症の予防に効果のある薬草が詰められている。それが余計にウツシの声をくぐもらせ、いつもよりアマネとの距離を遠くに感じさせた。
「だめですよ」
「面に詰め薬してるのに?」
「今はあまり、見られたくないんです」
「目隠しでもしてようか」
「教官。お願いですから……」
 簾越しに指先が触れ合う。夜気に触れたような冷たさの後、互いの体温が混ざり合いぬるく温まっていく。その指先から溶けていくような心地に、ほう、と熱い吐息がどちらからともなくこぼれた。


 朧に浮かぶ月が、雷狼の面にはめ込まれた硝子玉に反射し冷たい光を放つ。来た時よりも少しだけ傾いたそれを見上げると、ウツシは土間から跳び上がり、来た時と同じように天窓からするりと外へ出た。遅れて、背に垂らした布がひらりと揺れ消える。アイルーが隙間に入り込むような軽やかな身さばきに、アマネは身を起こしたまま簾の奥から見上げると、小さな微笑を浮かべた。
 その微かな吐息は、一里先の生き物の足音すら正確に拾うウツシの耳にも届いていた。
 天窓の、苔の生えた木枠を閉め切る直前にウツシが振り返る。冴え冴えとした光を纏う男は雷狼の面をわずかにずらすと、露わになった唇を薄く開いた。
また、明日も。
 一陣の風が吹き抜ける。男の潜めた声が落ちる頃には、すでに青白く輝く月影だけがあった。
 再び、アマネの上にしんとした静寂が積もり落ちる。アマネはゆっくりと倒れ込むと、掛け布に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。もうすっかり身に馴染んでしまった薬香の匂いと、懐かしい土と汗の匂いが鼻腔から肺へと染み込んでいく。その中に、鋭敏になった嗅覚がウツシが時折薫きしめる香の薄い残り香を感じ取ると、途端に埋み火が燃えるように身体の芯が熱を帯びた。
 身を丸めたまま唇を震わせ、息を細く吐き出しその熱をやり過ごす。
 しばらくそうしていると、やがて、厚手の布団を掻き抱いたままアマネがのそりと起き上がった。ウツシが置いた水差しを口に含み、枯れた喉を潤わせる。
 簾の間に指先を通し隙間を作ると、布団の陰から覗く銀色の双眸が微かな月明かりを反射し、まるで発光するかのようにきらめいた。
 その、音さえ聞こえそうなほど豊かな睫毛が影を落とす、すぐ下に。
 月影に照らされた氷原のように細やかに輝く、結晶にも似た凹凸が浮き出ていた。
 血の気のない指先でその上をなぞると、涙のようにぽろりとこぼれ、剥がれ落ちていく。同じように簾の縁をなぞると、しゃりしゃりと輝くものが落ちた。それを緩慢な仕草で拾い上げ空へと翳すと、薄い月明かりを通し、淡く青みがかった七色の光がアマネの顔へと降り注いだ。
 欠片は指先で摘めるほどに薄く小さい。その形は砕いた玻璃にも見えて、けれどまた、龍の鱗にも似ていた。
「ぁ、ぁ!」
 星の色を映す目が大きく瞠り、じわりと透明な膜が広がる。眉根はきつく寄せられ、水が漏れるように、堪え切れなかった嗚咽が喉の奥からじわじわと溢れ出た。



20211216

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