遍く照らす、 | ナノ
遍く照らす、 /
新月の夜こそ美しい
満開の桜が天に昇るほど花吹雪く夜。
一年中咲き乱れるカムラの桜は、春が兆す直前のまだ寒さが残るこの時期に一番の見頃を迎える。
酒にはしゃぐ大人たちを見下ろせる位置で、アマネは一人杯を傾けていた。小さなそれはウツシから貰った異国の硝子細工で、アマネが一等気に入っているものだ。酒はあまり嗜まないが、引っ張り出してきたそれに酒を注ぎ、灯りに透かして眺めるのが好きだった。
カムラの里では百竜夜行から里を守る度、誰かの祝い事がある度、何かと理由をつけては夜通し宴会が行われている。アマネの出立の日も、それは盛大な宴を開いてもらった。今日は何の祝いかなど、音頭を取るゴコクと里長すら知らない時さえあるが。それでも、誰かが誰かを想う心があるから、宴はいつだって開かれる。
特に今日は縁日も開かれていて、里中が昼間のように明るい。海へと繋がる川にも竹で作られた行灯がいくつも浮かび、雷光虫や蝋燭の灯りで天の川のように輝いていた。
上からぼんやりと眺めている中に、柔らかな煤色の髪が見当たらないことに気づいたアマネがきょろきょろと辺りを見回していると、板張りを踏みしめる音が近づいてきた。しっかりとした足取りで、まっすぐに回廊を進みアマネがいる屋根の下で止まった。
「アマネ」
アマネが屋根から顔を出すと、屋根の上を見上げるウツシと目があった。ほんのりと赤く染まった目元が艶やかで、アマネは少しだけ胸が高鳴った。
「教官、どうされたんですか?」
「なんだか無性に、君に会いたくなってしまった」
翔蟲で跳び上がったウツシがアマネの横に座る。手には徳利と、二つのお猪口。
「君が好きそうなお酒を見つけたから、つい。君は飲まないのにね」
「ふふ、教官が選んでくださったものなら何でも飲みますよ」
乾杯、と呟いたウツシがお猪口を小さく鳴らす。清酒よりわずかに黄味がかっているそれから、酒精と、甘い果実の芳醇な香りが立ち上る。
ウツシから星が燃えるようだと称された銀灰の瞳が、鈴を張ったように開かれた。
「甘いのに爽やかで、花のような良い香りですね」
「これ、ロンディーネさんが仕入れてきた異国の葡萄酒なんだって。……うん、やっぱり俺には甘すぎた」
「ご自分のは持って来なかったのですか?」
「ハモンさんからいただいたの飲んでたのに、里長に取られちゃったからなぁ」
ウツシはお猪口を一気に呷り、空になったそれを手の中でしばらく回してから、再び徳利を傾けた。
遥か遠くに光る星々が瞬き、わずかに目を伏せたウツシの頬に薄っすらと影を落とす。昔から変わらない精悍な顔立ちに、アマネはそっと吐息をこぼした。
「こうしていると、星見を教えていただいた時を思い出しますね」
「君は、星より雷光虫を捕まえるのに夢中だったよね」
お猪口を傾けながら、懐かしむように微笑むウツシに釣られて、アマネも顔を綻ばせた。
「ぼんやりとした光に照らされた教官の顔を見るのが好きだったんですよ。とても、きれいだったから」
まだ酒の残るアマネのお猪口に、きらりと一筋の光が反射する。
「あ、流れ星。光るのはわかるのに、何か言おうとすると消えちゃうんだよね」
「教官は、何をお願いしますか?」
「君は、何を願うのかな」
同時に口に出した問いに、アマネは思わず声を出して笑った。
よく笑い、よく泣き、よく食べ、必死に毎日を生きている。たとえその一生を描いた紙に墨が数滴こぼれていたとしても、その紋様は、きっとアマネにとっては誰よりも美しく価値のあるものに思える。紙面たくさんに描かれるその完成こそ、アマネの願い。
「私のはきっと叶いますから」
「俺のはもう叶わないけど」
迷い込んだ雷光虫が、アマネとウツシの周囲を漂う。微かな光の残像に照らされるウツシの横顔が、アマネは好きだった。
「そこからだと、何が見えるんだろうね」
ウツシは睫毛を伏せ、隣に置いたあふれそうなお猪口を見やった。
雲ひとつない満天の星空が映り込むそれに、丸い金の双眸が光り、手元に残る酒が揺れる。
「とても、奇麗な月が見えますよ」
「今夜は星がきれいだよ、アマネ」
20210517
支部掲載
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