遍く照らす、 | ナノ

遍く照らす、 / 火群の瞬き




別の地で小規模な百竜夜行の兆候があったが、わずか一晩のうちに群は消えていたという。近隣では土砂崩れが相次いで起きたこともあり、ギルド内では地滑りに巻き込まれたとして処理されたそうだ。

アマネが目の前で消えてから月が半分以上欠けたある日のことだ。ゴコクからその報せを受けたウツシは、夜明けと共に半ば飛び出す勢いで里を発った。
文字通り空を飛ぶように翔け、目的地周辺までの最短距離をほぼ直線に進む。地に降りる時は大型種の痕跡を見つけた時くらいだった。殆ど休息らしい休息を挟まず、川を越え木々を縫うように、只管前を見据え空を翔け抜けた。
それでも百里近く離れたその付近へたどり着いた時には、既に太陽は南中を過ぎていた。
ウツシは周囲に動く気配が無いことを確認し、音もなく地面へと降り立つ。
目標付近の地は、大社跡で見る巨木より遥かに大きな樹木が生い茂る、薄暗く鬱蒼とした古代の森にも似た様相だった。しかし、そこに漂う空気は葉や木々の青い匂いとは程遠く、雨の染みた土に混じった甘い腐臭と鉄錆のような血臭が、瞬く間に面の中に充満し鼻を突く。そのあまりにも酷い臭いに顔を顰めるが、その強烈な臭気はウツシにとって二度目のものだった。
……どこかで嗅いだことがあるな。
意識を埋め尽くすほどの臭いから逃れるように、樹の上へと跳んだ。喉元まで出かかった忘失の欠片の不快感に自然と眉根が寄る。思考を巡らせ、引っかかりを探るように記憶を辿っていく。
その間もウツシの足は周囲を偵察するように枝を蹴り木々を渡り、双眸は思い描いた影を探して深い緑を射るように睨んだ。
ウツシがその臭いの正体を、忘れていた記憶を思い出したのは、偶然にも探していた影を捉えた時だった。

報告にあった地点からやや離れたところにある、小高い崖の切り立った岩場の上。
幽鬼のように佇む黒衣の女がいた。
腰から垂れる、動きやすさと軽さを重視した布製の草摺。風にはためく黒ずんだ濃藍の四枚の後襟。顔の半分を覆い隠す怨虎竜の黒い面。そこから覗く眼差しは暗く、どこか遠くを見据えている。暗色の中一際輝いて見える白く美しい貌は、最後に見た時よりも幾分か血色を失っているようにも思えた。
日の当たり方によっては頬が痩けているようにも見える。それが一層、夜に沈んだ美しい女の亡霊にも思えて、ウツシの心臓が早鐘を打つ。その瞬間、限りなく森林と同一化していたウツシの気配が乱れた。
黒い女の影が僅かに動く。
暗く光る銀灰の眼が雷狼の鮮やかな碧色とかち合った。瞠目した女は、先ほどまでの視線の先を気にする素振りを見せながら、ウツシへと正対した。

「……こんな山奥にまで、何の用ですか」

緊張を孕んだ硬い声だった。ウツシを見下ろし俯いた顔には影が差し、柳眉はきつく寄せられている。銀灰色の瞳は妖しげに底光り、冷たく湿った眼差しをウツシへと注いだ。
警戒する野生動物のような様子にもウツシは臆することなく、むしろ面の下で柔らかく微笑みを浮かべ、一歩近づいた。

「用なんて決まってるだろ。俺の愛弟子を迎えに来たんだよ。さぁ、俺と一緒に里に戻ろう、愛弟子」

そう言いながらウツシが被っていた雷狼竜の面を外すと、碧色の下から爛と輝く蜜色の目が露わになった。その下には褐色の肌でも分かる程の隈がくっきりと浮かんでいる。
遠くで聞こえているモンスターの咆哮が止む。
さざ波が立つような葉擦れが僅かに聞こえるだけの静寂が、二人の間に満ちた。
……酷い顔ね。
思わず開きかけた口を閉じたアマネが静かに目を伏せる。彼女もまた、人のことは言えなかったからだ。そして口の端に笑みを浮かべ、聞き逃してしまいそうなほどの声で囁いた。

「……まだ、愛弟子と呼んでくれるんですね」
「当然だよ。キミを破門にした覚えは俺にはないし、俺個人だって忘れるつもりも、諦めるつもりも一切ない」

かき消えてしまいそうな声を余さず拾ったウツシが即答する。
当時男の手元に残った唯一の弟子として、二人は共に寄る辺のない者同士で同じ時を過ごした。嵐の夜に体温を分け合う獣の子供にも似たそれは、家族と呼ぶには歪な同族意識のようなものだったが。
それでも辛い修行に去って行く弟子達の後ろ姿と、孤独と戦うような任務に心を擦り減らしていた男は、間違いなく少女に救われていた。

――仕方がないから、わたしだけでもずっとおそばにいますね。

きっと、言った本人は忘れてしまっているだろう。それほどの些細な言葉。人の温もり恋しさに一回りも離れた少女に縋る青年を慰めるために口を衝いて出たものだ。それはまるで母親が子供の我儘に折れるようなものだったけれど、ウツシはその約束を生涯忘れない。
言葉通りにあまりにも過酷な訓練を耐え抜き、最後まで隣に立ち続けた少女のその言葉に、あの日の男は間違いなく救われたのだから。
だからいっそ、とうに忘れて破ってくれていたらよかったと、ウツシは呪わずにはいられない。
隣の体温はいつしか当たり前となり、果たされ続けた約束は、男の身体へ甘い毒のように染み渡った。
言葉通り、近くにいることが当たり前だった。愛弟子と呼ぶ少女は男にとって自身の一部のような存在で。だからこそ突然の一方的な別れは、半身を奪われたかのような痛みを伴い男の身体を苛んだ。
遠い過去へと思いを馳せていた、雷狼の面を背に隠した男の目が獲物を狙う竜のように細められる。日が雲に陰り、金の目が飢えた獣のように一層色濃く影に浮かんだ。
……だから、どうか。早く。

「帰ろう、一緒に」

ウツシが半歩距離を縮めれば、アマネもまた半歩身を引いた。ウツシの鉄蟲糸が届かない限界の距離だ。明らかに間合いを詰められることを警戒している。

「もう一度言うよ。戻ってきなさい、俺の愛弟子」
「いいえ、戻りません。この子と共に、私は私のやり方で里を守ります」

アマネの銀灰色の瞳が星のように閃く。――途端、身を屈める程の突風が吹き荒れた。
先ほどまでアマネが睨んでいた先、二人の後方から木々を軽々と飛び越えた怨虎竜が現れる。浅葱の目がアマネと対峙するウツシを捉えると、紫の竜体から鬼火が噴出する。宙で回転しながら尾を振り上げ、光線のような鬼火を撃ち放った。
それを翔蟲を飛ばし回避する。ウツシは宙を翔びながら軽業師のように体勢を整え、木の上に着地すると、緩みのないよう指抜きの手袋をぐいと引っ張り、一人と一匹を見た。
先ほどまでは何もなかったアマネの手に、翔蟲が握られている。

「逃げる気かい」
「はい。あなたと敵対するつもりはありませんので」
「俺にはあるよ。キミが戻らないと言うのなら、だけど。でもさぁ、愛弟子……俺から逃げ切れたこと、一度として無いだろ」
「……あなたは。私が強くなったこと、忘れていませんか」

口の端を釣り上げたアマネが挑戦的に笑う。翔蟲を離してクナイを握り、互いに構えを取る。
それが合図とばかりに、両手の指にクナイを挟んだウツシが地を蹴った。限界まで引き絞られた矢よりも疾く、速射の弾のように空を駆けアマネへと接近する。
その身体のすぐ脇を飛来した鬼火が掠め、地面を焦がしながら広がり破裂した。打ち返すように鬼火が来た方向へとクナイを放つと、怨虎竜の甲高い鳴き声と同時にアマネの指笛が鋭く鳴る。
向かい風となって吹き荒ぶ爆風を物ともせず、ウツシは真っ直ぐアマネへと飛び込んだ。
それを迎え撃つアマネは、豪速で飛び込んできた弾丸のような肉体を、軽やかに身を翻して回避した。直後、その膂力で急制動したウツシが視界から消えたアマネへと振り向き、重い突きを放つ。それを腕を覆う手甲で受け止めると、踏みしめた足が僅かに浮き、装備が嫌な音を立て軋んだ。
アマネの身体のあまりの軽さに、ウツシは一瞬眉を顰めた。以前はもう少し筋肉の重みを感じられたような気がする。
動きに思考の鈍りが現れたウツシの隙を衝き、アマネは瞬時に重心をずらすことで力の方向から外れ拳を往なした。
単純な力比べでは、ウツシほどの筋力も重量も無いアマネは圧倒的に不利だ。しかも、互いに得意とする武器は近接武器である。
しかし、完全にアマネを捕まえることが目的であるウツシに対し、アマネの勝利はウツシを倒すことではない。その場に拘束、もしくは足止め。追いきれない領域にまで撤退する時間さえ稼げればそれで勝ちだった。
だからこそ、アマネは負けるわけにはいかない。
ウツシから繰り出される、回転しながらの足払いを後方へ飛ぶことで避け、クナイを周囲へと投げた。それを軸として、アマネとウツシの足下に鬼火が広がる。

「クナイに砕いた結晶を塗したのか……!」

アマネが好んで使う鬼火纏とも異なる使い方に、己のクナイとの差異を見つけたウツシが瞠目した。立ち昇る鬼火から逃れようとするが、押さえ込むようにして放たれたクナイと鉄蟲糸が、ウツシの動きを制限する。
投擲されたクナイの衝撃で広がった鬼火が明滅した。小さな燃焼は瞬く間に広がり大きく膨らむ。
弾けると同時に地を蹴り疾翔をしたアマネは、怨虎竜のように爆破の勢いで加速し、四方からの風圧で身動きが取れないウツシへと迫った。

「それ、よくわかりましたね」
「俺も好きだからね。そういう細工は」

振りかざされたクナイがウツシの鼻先を掠め過ぎた。炎の中で熱を帯びたクナイから剥がれ落ちた粉末が眼前で広がる。アマネの冷えた眼差しを奥に捉えたまま、焼け付くような熱がウツシの眼球から水分を奪う。
爆破の影響を受けないアマネに対し、ウツシはどれほど鍛えていても各やられ耐性には限界があった。
乾燥で目が霞みアマネの姿をぼやけさせる。その影が揺らぎ輪郭を消すのを気配で捉えたウツシは、脊髄反射でアマネを蹴り飛ばし、翔蟲で遥か上空へと離脱した。

「今のは俺も驚いたな」

すぐに接近できない距離に膝を突いたウツシが微苦笑する。相手を見極める冷酷な観察眼。非情な手を取ることを躊躇わない決断力。たとえ相手が師であったとしても容赦無く急所を狙うアマネに、そう教え仕込んだのはウツシだ。だからこそ、まるで自分自身と戦っているかのようなやり難さを感じる。
……俺の全てを授けたのだから、当たり前か。
追撃を仕掛けてこない事を確認したウツシが立ち上がると、アマネを落ち着かせるためと顔が見えていた方がやりにくいかと判断し、外していた雷狼の面を再び被った。男が心を切り替える。

「まだ、やりますか」
「キミの方こそ。いい加減諦めて、俺のところに帰っておいで」

アマネの口が弧を描く。瞳孔が開き、瞳の奥で妖しく輝く鬼火のような光が揺らめいた。顔を半分覆う怨虎竜の面の、暗い窪みに嵌め込まれた硝子も仄碧く光る。

「、ぁ……」

喉が締まり、ウツシの口から声になりきらなかった息が漏れた。
その玉こそ雷神龍との戦いの前にウツシが渡し、大穴の底に割れて見つかった半分の片割れであることに、ウツシはようやく気が付いた。
ウツシの胸に締め付けられるような疼痛が滲む。同時に憤懣にも似た高揚が湧き上がり、指先にまで広がった。
荒れ狂い綯い交ぜになった感情は、一周してウツシの感覚を研ぎ澄ましていく。

「いいえ。私はこのまま進みます。――たとえ、これが無道の旅路となろうとも」
「……なら、尚更だ」

両手にクナイを握ったウツシが脚力だけで駆け抜ける。
鬼人化状態のような移動速度で迫り、間合いを競り合うようにウツシとアマネのクナイが打ち合い、甲高い音を響かせた。
地上では勝機が無いと判断したアマネが翔蟲で高く翔び、樹上へと逃げる。その背へ伸ばした指先が女の足を掠めた。続けて翔んだウツシが碧く光る軌跡をなぞるように、ぴったりと背後を陣取り、後を追う。
幹を蹴り、枝を跳び、木々の隙間を縫うように駆けていく。次第に深く暗くなる周囲に、ウツシは狭いが故に翔蟲が使えない場所へと誘導されていることに気が付いた。
ウツシもその職務上敏捷性は並外れているが、小回りの利く動きは弟子であるアマネの方が僅かに得意としていた。その証拠に、少しずつではあるが彼女との距離の差が広がっている。
一歩前へと駆けるごとに、アマネの速さは増していた。
翔蟲で捕まえようにも、生い茂る木々が邪魔をして上手くアマネに絡みつかないだろう。クナイの投擲も同様に見切られる。
このままでは撒かれると、一層強く踏み込んだウツシの影が赤く揺らめいた。鬼人化に近い状態となったウツシの身体の、高い負荷に耐えきれなくなった一部の毛細血管が千切れ、内出血を起こす。
木々を薙ぎ倒す勢いで背後から迫ったウツシが至近距離でクナイを投げ、鈍く光る刃を振りかざした。
それをアマネは同じように握ったクナイで刃先を逸らし、直後に死角から飛んできたクナイを手甲で弾く。下から抉るように蹴り上げられ、受け流しきれなかった勢いでアマネの軽い身体が宙へと躍った。
重心を崩したアマネに向かって、全ての指にクナイを挟んだウツシが投擲する。
ハンターとしても人間の範疇を超えた膂力で放たれたクナイは、散弾のような速さと威力で降り注いだ。アマネは身を縮めて両腕を交差させ、可能な限り籠手と脛当てで受け止める。甲高い音を立てて弾かれたものが鈍く光りながら回転し、幹へと刺さった。
広範囲に投げられたクナイはアマネの剥き出しの肩や頬を掠め、赤い筋を描いていく。
クナイの雨が降り終わると、一旦地上へと降りていたウツシが間髪入れずに鉄蟲糸を放つ。その手から伸びた仄碧い光線が、縦横無尽に駆け巡る。
ウツシが放った糸はアマネを包囲するように籠目を作り、狭まっていく。たとえ剣で断とうとも、頑丈な鉄蟲糸の網は二重三重に重ねられていた。全てを斬り、網を掻い潜るには片手剣では長さが足りない。糸に触れたが最後、アマネはウツシに絡め取られる。
宙を舞うアマネに、翔蟲の羽音が耳に迫る。

「捕まえ――」
「――まだですよ」

アマネが腰に佩いていた片手剣を抜く。振り抜いた勢いのまま剣を投擲すると、巻きつけた鉄蟲糸を手繰り、遠心力で振り回した。
放った鉄蟲糸技でアマネに迫る糸の第一陣が切り刻まれる。
ウツシの狙い通り、次いで迫る糸の網が閉ざされようとした瞬間。その怨虎竜の力が宿った片手剣から、ふわりと赤紫に光る、蝶の鱗粉のような粉塵が瞬く間に広がった。
鬼火纏やクナイに塗した粉塵とは違う、怨虎竜そのもののような鬼火の噴出。それがアマネを絡め取らんと、二重三重に伸ばされた糸の全てを焼きながら吹き飛ばす。
瞠目したウツシは、糸を手繰る手を伸ばしたまま呆然とアマネを見上げた。視線の先にはいつか見た夕焼けが広がっている。
ウツシはその、赤紫に染まる宵の天に輝く、燃える星のような銀灰に目を奪われた。
……嗚呼。――■しい。
水底から浮き上がる泡のような言葉は、そうと知覚する前に弾けて思考に溶けた。
胸に込み上げるもので満たされる。そして、瞬き程の間を置いて、アマネが木に着地した小さな音でウツシの意識が回復する。
心臓が音を立てて脈打ち、雷に打たれたかのような衝撃がウツシを包む。それでもその頭脳は、目に焼き付いた動きを冷静に分析していた。

「……今度は、マガイマガドのガスか。どこかに霊結晶でも仕込んでいるのかな。……重心が少しズレていたね。なら、仕込めるとしても中子の辺り。キミの剣の大きさだと、多くても三回くらいかな」

一瞬で看過された渾身の一撃に、アマネは小さく歯噛みした。あと一歩が詰められない。暗く濡れたような風が肌を撫でる深い森林ではあるが、その焦りと鬼火の熱でアマネの額には汗が滲んでいた。たとえ鬼火を纏い慣れた身であっても、爆破の熱は感じている。
険しい表情を浮かべたアマネにウツシが面の奥で笑った。

「だって……俺、教官だよ?」
「っ、そう言っていられるのも、今のうちです……!」

あからさまな挑発だった。
それでも焦りから徐々に余裕を失っていたアマネは、再び周囲に鬼火を舞わせた。





音を立てて雷狼の面が落ちる。
無機質な硝子の目が光を反射し、直後滴り落ちた男の血に遮られた。

結果として、勝利したのはアマネだった。
太い木々の間、鉄蟲糸が檻のように張り巡らされたその空間で、ウツシは仰向けの状態で腰を挫くようにして吊るされていた。
絡まった操り人形のように手足は折り畳まれ、全ての関節に押さえ込むようにして糸が巻きついている。
ウツシは糸が肌を裂くのも気にせず、引き千切ろうと力を込めた。何重にも重なり複雑に絡み合った鉄蟲糸が嫌な音を立てて軋む。それでも切れそうで切れない、糸を手繰るアマネの絶妙な力加減に、ウツシは唸りながら歯を鳴らした。
その少し離れた所で荒い息を吐きながら、両手の指に血が滲むほどきつく締め上げた糸を手繰るアマネが、腕に深々と刺さったクナイを抜き立ち上がった。クナイには薬が塗布されていたのか、目は霞みその足元は覚束ない。
ふらりと傾いだ身体を震える足が踏ん張り、崩れる前に辛うじて止まる。
装備は所々切り裂かれ、籠手や脛当ては歪みが目立った。額から流れる血が目を赤く染め、全身は汗と土埃で汚れている。
全身を縛り上げられたウツシもまた同様に、真新しい切り傷と鬼火による爆破の熱で焼けた肌から血が滴っている。
二人の傷と、辺りに散乱した無数のクナイ、そしてなぎ倒された木がその戦闘の激しさを物語っていた。
拘束され、宙に吊るされたウツシにアマネが一歩、歩み寄る。

「まさか、キミに負ける日が来るとはね」

刃こぼれが酷い剣を手にしたまま無言で近づくアマネに、目を炯々と光らせたウツシが口を開いた。その声は炎が喉を舐めた拍子に僅かに焼けたのか掠れている。
冥府の淵へ誘う幽鬼のような佇まいの女の、首筋に滴る汗が胸元へ伝うのを目で追う。幾度も刃を交えた、互いの血で汚れ赤く染まったその様に、男はずっと場違いな高揚すら覚えていた。
その男の熱を冷ます、氷塊のように冷たい声が鼓膜に滑り込んだ。

「それ、手加減のつもりですか?」

アマネの指が終ぞ抜かれることのなかった双剣を差した。
ウツシの卓越した技術により、彼専用の双剣は折れそうな薄さに反して、斬れぬものなどないと言うほどの鋭さを誇る。その愛刀を振るっていれば、そもそもこうして吊るされることはなかっただろう。
全力で捕まえると言った口で手を抜く男の考えが読めない。それがアマネには何よりも不気味だった。何か致命的な見落としをしているようで、心が騒めく。今捕まっている姿さえ演技で、背後を見せた瞬間首を落とされてしまうような寒気身を包んだ。

「まさか……全力だったよ、初めから」

獲物に食らいつく獣のような顔から一転し、ウツシは眉を下げ、珍しく弱ったような顔を浮かべた。
そのまま目を伏せたウツシに、アマネは後ずさりしながら距離を取る。
……どちらにせよ、もう二度と会うことはないでしょう。
臓腑の焼けるような痛みに耐えるアマネは、墨染めの着物を翻すと、日が沈みつつある茜色の空へ翔蟲で跳躍した。

アマネの気配が遠ざかっていく。
遠くから聞こえる指笛と怨虎竜の咆哮が、山間を反響しながら木霊していた。





アマネが遠く消え、日も沈み、その影も気配もとっくに追えなくなった頃。
その周囲に血の匂いを辿って来たモンスターが集まり始め、ウツシはようやく目を開いた。

「……キミだって、盾持ってなかったくせに」

血が滲んだ唾を吐き出したウツシは奥歯が軋むほど歯をくいしばった。
膨張した筋肉がぶちぶちと音を立て、糸を引き千切っていく。その力任せに引いた腕から血が滴り、糸を伝い地面へと垂れていく。

――男なら、惚れた奴を手に入れる時くらいなり振りかまうな。みっともなく足掻いてでも奪い取れ――

フゲンに言われた言葉が蘇る。
愛刀を抜いていればアマネに捕まることはなかっただろう。だが、そうすればきっと、アマネの方が無事では済まない。それは駄目だ。だって、あの炎を守り燃え盛らせることこそ、教官として与えられた役目なのだから。
そして手を伸ばして届かないのなら、それは己にとって分不相応なものだという事を、ウツシはよく理解していた。男は生来、諦めが早い方であった。
――ならば、諦めるのか。
奥底から響く声が、己に問う。
ハンターである以上多少の傷は仕方ないとしても、二度と動けなくなるほどの傷を与えることは、ウツシとしても本意では無い。
――ならば、ウツシ以外を選んだアマネを許容できるのか。
ああ。それが、アマネのためになるのなら。
言われた通り、男は愛弟子を過去にして生きることもできる。救われた過去もなかったことにして、心を殺したまま教官の顔で生きていくことができる程度には、男は道具としての自身の調整は心得ていた。
だから、ただの師であるウツシ教官≠ヘ、愛弟子最後の我儘を叶えてやるべきだと、迷わず手を引くべきだと、ウツシはその問いに言い聞かせるように心中で呟いた。
すると、ウツシの脳裏に、己のいない場所で己以外に笑いかけるアマネの姿が勝手に再生される。
黒い髪を伸ばした美しく成長した女が、仄かに朱く染まった白い顔に柔和な表情を浮かべ、貌の無い男に抱かれている。そこにウツシの影はなく、けれどアマネは、心の底から幸せそうに男の胸に頬を寄せた。
ぐるる、とウツシの喉から唸り声が出た。
腹わたが煮えくり返るほどの激情がウツシの身を貫く。
許さないと、口からこぼれた己の声に驚いた。怒り、嘆き、憎しみ……あらゆる負の感情を煮詰めて固めたような、暗くて熱い粘着質な声。ウツシ自身が気付かぬよう蓋をしていたもの。長い年月をかけてウツシの奥底に積もり溜まったそれが、どろりと滴り、溢れ出た。
身の内で眠る己の姿をした獣が、あの女が■しいと囁く。
……ああ、そうか。そうだったのか。
男は、はたと悟った。
半身としてであれば、こんな感情は抱かなかっただろう。だって、二人はすでに一つなのだから。
だが男はとうに、その激しい炎に見惚れ、瞬く星に手を伸ばし、微笑む花に焦がれていた。自身の一部として見ていなかった。
どうしても求めずにはいられない。たとえ身を焼かれても、届かず空から落ちようとも、花を折ることになろうとも。

「次こそは、必ず――」

腹の底に眠るどろりと渦巻くものが、ゆっくりと鎌首をもたげた。



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