企画 | ナノ

襖窓から見える景色に舌打ちが鳴る。くすんだ灰色の積乱雲が空を埋め尽くしていた。今にも雨が降りだしそうな雲の下、蝉時雨がやかましい。みんみんと連ねて鳴くさまが風流だと言っていたのは誰だったか。
どこが風流なのか、さっぱりだ。
ナマエの時はそうでもなかった。けれど、“猿飛名前”の体は羽虫がたてる音だとか、蝉の鳴き声だとか、爬虫類の息遣いだとかそういう類いのものを受け付けなかった。動物の声をまるで翻訳したかのように通すこの耳もそれらの声は通さなくて、ただ煩わしい音を届けるだけだった。

いつもなら、気持ち悪い、くらいの気分で受け流すのに。なんたって今日は頗(すこぶ)る不調だった。
蝉時雨が、悲鳴に聞こえる。なんの、人の。咽ぶような声だったり断末魔だったり、むせかえりそうになるような、悲鳴。
数日前の他国との小競り合いの光景が浮かぶ。


初めてだった。人の声がこんなふうに聞こえるのも、ここまで“死”に苛まれるのも。今まで、気にもとめなかった。とまらなかったし、とめる必要もなかったから。そう、まるで今まで何でもなかったことなのに。言うなればあれだ。「人の死とは、こんなに重いものだっただろうか?」「俺が奪ってきたものって、こんなにも、こんな、こ、んなに、も」──形あるもの、だった?
ねぇ、なんで、だ。
上げた手は、ゆらりとさ迷って、耳を塞いだ。目を瞑る。
雨が、降りだした。
泣きたいなぁ。




「若?」

またいつものごとく執務を放りっぱなしで部屋を抜けた幸村を探し、あちらこちらの部屋の扉を開けていく。もはやそれは六郎の日課だった。
そんな彼が最後に行き着いたのは猿飛名前の部屋だった。行き違いにはなっていないだろうから、ここしかないはずだろう。そう思って伸ばした手が寸でで止まる。
それは誰かが六郎を制したわけではなくて、六郎自らが止めたのだ。

開けて、いいものか。
猿飛名前という忍は自己を覗かれるのがあまり好かない人間だということは分かっていた。
つまり、彼がこのこと知ればいい顔をしないのは容易に想像できた。六郎も人間で、今まで築いてきたものが崩れるのはあまりよく思わない。
そう、揺らぎはしたものの、名前は物分かりがいいから、きっと言い訳はいくらでも聞くだろうと六郎は襖に再度手を伸ばした。

果たして、彼は目的の人間を見つけた。ただし、

「若、それに………名前?」

「おぉ!六郎」

当たり前であるはずなのに、意外と感じる人間が、一人。
振り向き笑みを浮かべた幸村の胡座をかいた足元に小柄な青年が丸まっていた。穏やかに聞こえる息からして、眠っているらしい。
かけられている着物は幸村のものだったはずだ。
一応音を潜めて歩き寄れば、たしかにそれは名前だった。
その姿に六郎は微かに息を呑む。滅多に人前で休まない男が、なぜ。
それを察したのか、幸村が苦笑して名前の頭を撫でた。

「先ほどな、ひどく怯えておったよ」

「名前が、ですか?」

「ああ。珍しく…久しぶりに甘えてくるものだからつい甘やかしたくなる」



怖くなった。部屋の隅で縮こまっていた彼は幸村に告げた。人を殺めることが、辛いと。できないことはない。きっと今まで通りにできる。それでも、頭の片隅で断末魔が聞こえるんだと。今までこんなことはなかった。でも、今は人の命がわけの分からないほど大きく見えるのだと。
そっと触れた体は、微かに震えていた。──青年は怯えていたのだ。

それは、普通だと幸村は青年に笑った。

誰かを殺める時に罪悪感を少しでも感じない人間はいないのだ。
もし、仮にお前が今まで何も感じなかったのなら、今、お前は人間になれたのだ。優しくなれたのだと。

青年は幸村の言葉にしばらく目を見張っていたが、やがて小さく尋ねた。

「いいんでしょう、か。そんな勝手、許されるんでしょうか」

「もともと、お前がすべてを背負い込むことはない。お前はワシの命令に従っただけだろう?なら、ワシもそれを背負わなければ不公平というやつだろう」

幸村はまた、微笑んで青年の頭を撫でた。




「──少々、無理をさせていたらしいのぅ」

「嫌、と言わない子ですから、ね」

「はは、それは違うぞ。六郎」

「?」

幸村がからりと笑った。

「言えない子、だ」




哀しい嘘を喰らう少年