……最悪だ。
はぁぁぁ、と一年分くらいの幸せを全て逃がしてしまったんじゃないかというくらいのため息をついて、当分止みそうもない雨を見ながら、もう一年分くらいの幸せを逃がしてしまうようなため息を吐いた。
日曜日、たまたま早く目が覚めて天気も悪くなかったから電車を乗り継いでわざと遠くの本屋まで来てみたのだが。
立ち読みをしながらふと外を見れば、台風並の降水雨量。どうりでうるさいと思った、危うく半分まで読みかけた雑誌を取り落としかけて呆然となる他ない。
天気予報も雨が降るなんて言ってなかったし、隣で漫画雑誌を読んでいた人もわたし同様呆然と外を見ている。
(……どうしよ)
傘なんて持ってきているわけがない。
コンビニでビニール傘を買おうか悩んだが、コンビニへ行くまでにずぶ濡れになるのはまず間違いない。(叩き付けるような激しい降りなのだ)
買いに行くまでにずぶ濡れになるのも、買わずにずぶ濡れながら帰るのも対して変わらない気がしたので、あたしは本屋のすぐ隣にある喫茶店で雨が止むのを待つことにした。
こんな時くらいにしか本を読む機会もないわけだし、少し長めの小説でも読んでみようかな。
読みかけた雑誌を棚に戻し、文庫コーナーへ向かう。時計の針は11時を少し過ぎたところ、どうせだからお昼もそこでとってしまおう、そんなことを考えながらおもしろそうな本はないかと棚を隅から隅まで眺めてみた。
(これがいいかな)
ふと目に留まった一冊を手に取る。タイトルに少なからず興味が湧いた。
"晴天"
ぱらぱらと少しだけページをめくると、それはいくつかの短編集になっているようで晴れの日、というのを題材とした色んな物語が詰め込まれていた。
ただでさえ鬱屈としている今、小難しいものを読む気なんてしないし、だからといって軽すぎたり重すぎたりするベタな恋愛ものもちょっと気が引ける。
気分だけでも晴れやかでいたいと思い、この本に決めて会計を済ませるとわたしは本屋を出て、隣の喫茶店に飛び込んだ。
レトロな造りのドアを押し開けるとドアについているベルがからん、ころんと可愛く鳴った。レジにいた店員さんがいらっしゃいませ、お一人さまですか?と尋ねてきて軽く頷くと、こちらへどうぞと一番奥のブースへ案内された。
案外混んでいる店内は、数少ない店員さんが隅から隅まで忙しなく行き交っている。
「急な雨ですよね、どうぞやむまでごゆっくりどうぞ」
席に着いてメニューと水を置きながら店員さんが、にこり、と微笑む。わたしが傘を持っていないことに気付いて配慮してくれたようだ、感じのいい優しい店員さんだなあ、と思いながらありがとうと返した。
一番奥のブースということもあってか、混んでいる店内のざわめきもそれほど気にならなくて、本を読むのにも集中できそう。
とりあえず、お腹が空いてきたし何か食べてからにしよう。メニューをぱらぱらめくりながら何を食べようか迷っていると、さっきの店員さんがやってきた。
「お客さま、大変申し訳ないのですが只今大変混んでおりまして、相席よろしいでしょうか?」
「あ、はい」
「大変申し訳ございません」
「いえ」
ものすごく申し訳なさそうにする店員さん、こんないい人にお願いされたら断るわけにはいかないでしょ。それにこの豪雨だもん、困ってる時はお互い様。
店員さんはこちらへどうぞ、とわたしの前の席にお客さんを案内して、また大変申し訳ございませんと謝ってからメニューと水を置いてごゆっくりどうぞ、と奥に戻っていった。
目の前に座ったのはきちんと整えられた髭が特徴的なスーツの男性、おじさん世代に入りかけたかな、くらいの年齢だろうか表情には少し余裕があるように見える。
背が高くて切れ長の目、危ない系の仕事の人だったらどうしよう。
どこから走ってきたのだろうか、ほんの少しだけ息が乱れていて髪もスーツもびっしょり。濡れた上着を脱いで、彼はわたしの方を見た。
「私などとの相席になってしまって本当に申し訳ない」
「い、いえ!わたしは全然!」
真一文字に結ばれていた唇からは、思いもよらない言葉が飛び出し、鋭い眼光からは想像もつかなかった丁寧かつ少し古風な物言いだ。危ないお仕事の怖い人なのかと一瞬だけでも思ったりしたのを、わたしはそっと心の中で謝った。
額に張り付いた前髪をかき上げると、湿った髪から雫がぽたぽたとテーブルに落ちる。あ、あれ?なんかものすごく色っぽく見えるのですが、まさに水も滴るいい男状態ですよね。これ。
わたしは気付いたら鞄からハンカチを取り出していて、差し出していた。
「これはかたじけない」
「いっ、いえ!」
ありがたくお借り致す、と微笑みながら、受け取ってもらえたハンカチで髪やスーツを丁寧に拭いていく。
「お名前を伺ってもよろしいかな?」
「あ、なまえです!」
「なまえ……では是非私に昼食を奢らせてほしいのだが」
「そんな悪いですよ!」
「いや、これくらいは当然でしょう」
ふ、と微笑まれ彼はホール中央に手を挙げると気が付いた店員さんがやってきてご注文をどうぞ、とにこやかに言う。
「季節野菜のランチをふたつ」
「お飲みものはいかがいたしましょう」
「コーヒーをホットで、なまえは?」
「えと、アップルティーで」
かしこまりました、と店員さんは再びにこやかに言って去っていく。ここのランチはとてもおいしいからおすすめでしてな、そう言った彼の言葉にこくこくと頷けば、またふ、と微笑まれた。
おいしいって知ってるってことは、きっとこの辺で働いているひとで常連さんなんだろうな。
そんなことを考えながら、せっかくのご好意を無下にするのも失礼なので、ありがたくご馳走になることにした。それにしても綺麗に笑う人だなあ。
「なんですかな?」
「いえ、なんでもないです!」
無躾にもじろじろ見てしまっていたようだ、気付いた彼に問い掛けられ慌てて取り繕う。不自然だよね今の…ものすごく失礼だよね。うわ、どうしようめちゃくちゃ微笑ましげだよ恥ずかしいな。
しばらくしてから注文したものが運ばれてきて、色鮮やかさといいにおいが食欲をそそる。どうぞ召し上がれ、とでもいうようににこり、と笑う彼につられてスプーンを取った。
あ、おいしい。
「あの」
「なんですかな」
「えと、お名前は」
さっきは途中、名前を聞き返そうとしたがタイミングを逃してしまった。おずおずと尋ねてみれば、あぁ、これは失礼私ばかり名前を聞いておきながら名乗っていませんでしたな。張遼と申します。と丁寧に返してくれた。
張遼さんは学校の先生だそうで、つい最近どこかの学校の先生が急な病気で休まざるをえなくなったために、臨時で代わりに勤めるらしい。
今日はその手続きのために学校に行っていたそうだ。言われてみれば確かに先生っぽいかもしれない、なら張遼先生て呼ばなきゃですねと笑ったら、よしてくだされ、と彼も笑った。
それから他愛のない話で盛り上がり、喫茶店を出たのは入ってから3時間も経過していた。土砂降りだった雨はいつの間にか小雨だった。
* * *
「そんでねー、すっごい素敵な先生だったんだよ!」
「なまえ、超ツイてるじゃん!」
次の日、学校で友達に喫茶店での出来事を話し、そんな先生がうちの学校にいたらどんな科目だって張り切ってがんばるのにねーと言い合った。
ホームルームと1時間目の間の休み時間、最初は5秒でも目を閉じようものなら即刻、夢の世界とこんにちはしそうになる周喩先生の古典。(わけのわからない漢文の羅列がまるで呪文だ)
がら、と教室のドアが開いて鞄からのろのろと教科書とノートを取り出しかけ、わたしは周喩先生がいるはずであろう教卓を見て固まった。
ねえ、これって夢じゃないよね。一応独り言のつもりで言ってみたのだが、友達は現実だよと言いながらわたしの頬をひっぱたいた。
激しい衝撃のあとに痛みが遅れてやってきたが、それすらも気にならないくらいこれが夢じゃないことに嬉しさが込み上げてくる。
「もしかして」
「うん、張遼先生だよ!」
急な病気というのは周喩先生だったらしい、元々胃痛持ちだったみたいでうちのクラスの問題児達(反りの合わないらしい甘寧と馬超)の喧嘩に散々授業の妨害を受け続けて、とうとう胃に穴が開いたそうだ。
張遼先生はわたしに気付いたようで、軽く目配せすると周喩先生代役の理由を話し始めた。夢じゃない!周喩先生には悪いけれど、どうかこのまま胃に穴が開きっぱなしでいてください!
晴れた日に君と(外は昨日と打って変わってからり、とした青空が広がっていた、あの本は結局読んでいないけれど)20090902
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