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重たい、肩が痛い、足が痛い寒いだるい疲れた早く帰りたい。あらゆる悪態を全て語彙が尽きるまで吐き散らからし耳元で唸る男に一瞬だけ視線をやった、私にしなだれかかっているせいで表情は見えない。見た目よりも柔らかい毛の隙間からつむじが見え隠れしている、そして酒臭い。あとうるさい、ごにょごにょもにょもにょ、言葉になりきらない音が口からでまかせのようにだらだらとこぼれている。吐瀉物でないことが唯一の救いとでも言っておく。

こうなった経緯は数刻前に遡る。

「おっとこれは奥方殿」
「……いや私は」
「偶然ですなあ奥方殿、いいところに来なすった」
「いやだから違」
「荀攸殿と先日の戦についてと近況を振り返っていたところ、どうも困ったことにお互い進んでしまいましていやはや……俺ももう足元が覚束ない覚束ない、同じく荀攸殿も潰れちまいましてねえ、うーん困った、酔っぱらい同士では到底邸まで帰れそうもない、俺だけその辺りで行き倒れていても誰も困りはしないが荀攸殿に大事があったとなったら俺は曹操殿に面目が立たない、そんなところにあんたがやって来た!まさに天の助けってやつか、あっはっはあ!ここは一つ頼まれてくれるとありがたいんだが……いやなに、もちろんタダとは言いませんって、礼は後日楽しみにしておいてくださいよ、っと俺はこれで」

殿だった。

突然現れ肩には荀攸殿を支えている、いや支えているというよりは引きずっているようだ。驚いて半歩後退り顔が引き攣ってしまい、しまったと思ったがもう遅い。私にとってはどちらも立場が上である、失礼な態度を取ってしまったにも関わらず、賈殿はいやにわざとらしくニンマリと笑って全く気にしていない様子だった。むしろ好都合だとさえ言っていた。

そうしてほぼ成り立っていない会話を二、三交わし、一気に捲し立てるようにしゃべりだしたかと思えば、最初から一言もしゃべらず、ほぼぴくりともしない荀攸殿を私に寄越し、去っていったのである。そう、颯爽と。

どこから訂正して何を突けばいいのか、返す言葉も追いつかないまま賈殿は消えた。逃げ足が早すぎる、あれのどこが“足元が覚束ない”のだろうか。ほぼ素面ではないのだろうか、達者でよく回る口もおおよそ酔っ払いのそれではない。私は体よく荀攸殿を送り届ける役を押し付けられてしまった。

そして冒頭に戻る。

ずず、ずず、と不恰好に足を引きずる荀攸殿に、何度しっかり歩いて欲しい旨を伝えたことか。聞いていないというよりは、恐らく聞こえていないと言った方が正しいだろう。最初のうちは何も発していなかったが、しばらくすると何やらぶつぶつと呟いている。私の言ったことに反応しているのかと思ったのだがどうやらそうではないらしい。聞き取ろうにも呂律が回っていないせいで何を言っているのか全くわからない。

そのうちに抑揚は出てきたものの、相変わらず音ばかりが漏れる程度で、結局聞き取るのは諦めた。しかしその音がそこから延々と続くので、いい加減苛立ちを覚えているのがちょうど今である。邸まではもう少しだ、男一人を支えて歩くのはなかなか厳しい、着いたら放ってしまおう。無礼も失礼もあるものか、相手は前後不覚の酔っ払いだ。何か言われた場合、ここでいいと言われたとでも返しておけばいい。

必要以上に近付くのは賢明ではない、余計なことは知りたくない、これは尊敬と敬愛だ。自分に何度も言い聞かせ、湧き上がりそうになる感情を堰き止める。私は昔からこの男にどうしようもなく惹かれている。

優れた観察眼、意図せず付けられた耳の傷を隠す利発さ、一片の迷いもなく指示を出す横顔、的確に刻を捉え敵陣を崩す戦術、必要以上に物言わぬ引き結ばれた口から稀に出てくる賞賛は何ものにも変え難い気持ちをもたらしてくれる。

一介の兵卒でしかない私など近くにいていいはずがない、それが例え同郷の幼い頃からの馴染みの者であったとしても立場が違う、もはや軽率に声を掛けていいはずがない。彼が功績を残して出世していくことは本当に心から喜ばしいと思っている、だからこそ余計に。彼の出世を見届け活躍を目の当たりにし、彼自身の居場所を守りたい。その一心だった。

最初から私が見守らずともこの道筋は決まっていたも同然、そもそも同郷の馴染みの者ということは誰もが知っている周知の事実、その程度で賈殿に奥方などと揶揄される筋合いもない。

「さ、荀攸殿」

邸に着いた、肩から支えていた荀攸殿を下ろすと開放感から自然とため息がこぼれた。ぐずぐずとその場に崩れそうになっているのを何とか支えようとするものの、上手くいかない、力の抜けた人間とは何故こうも扱いづらいのか。使用人ももう帰ってしまったのか誰も出てこない、そもそもあまり他人を側に置いておきたがらない彼の性分を思えばごく自然なことだ。

滅多なことではないが、今回のようにこれほど酔って前後不覚になる場合くらいは共をつけるなりして欲しい。元はといえば賈殿が最後まで面倒を見てくれればよかったのに、なんて不満までもが脳裏を掠める始末。

「いいですか、私はこれで失礼しますよ」

未だにもぐもぐと何かを言ってるようだが、心を鬼にして放置を決め込んだ。明朝、最初にやってきた使用人に怒られてしまえばいいんだ。夜は冷える、私の裘では多少小さいだろうけれど何もないよりはいい、それを荀攸殿に巻き付けて足早にその場を後にした。



「置いて帰った?」

殿が目を見開いて驚いた表情をすぐに崩し、大袈裟に膝を叩いて声を上げて笑った。いやあ昨晩は迷惑を掛けた、それで?と聞かれ問い掛けの意図がわからず首を傾げれば、荀攸殿を送ってくれただろう、その後はどうしたんだ?と続けてそう聞かれたので素直にありのままを答えたらこれだ。

彼が大丈夫だと……そう尻すぼみ気味に言ってみたもののまるで信じていない、賈殿は心底おかしそうに笑うばかり。一体何が言いたいんですか、棘を含ませた語調で訊ねても要領を得ない。

「まあ俺が解決させちまってもいいんですがね、どれだけ遠回りしたとしても、それもまたよし、とだけ言っておきましょうかねえ」

私も馬鹿ではないから含まれた言葉の意味をここでようやく理解した、心の内を言うことができればどれだけ幸せだろう、それでも今の私たちの身分差では……と尻込みしてしまう。当人たちがよくとも周囲がそれをよしとしない、反対されるかもしれない。もっと名のある家柄の娘でなければ荀攸殿には相応しくない。何の取り柄も後ろ盾もない私では……。

「ま、何にせよ本人の意思を聞いてから二人で考える、なあんて手もあるでしょうよ」

殿がそう言いながら私の顎を人差し指でちょいと持ち上げてくる、少々距離が近いのでは、と言おうかとしたところでぐっと肩を包まれるようにして引き寄せられた。よろけずに済んだのは肩を包んでいる腕がしっかりと支えてくれているからだ。

「俺は、あなたでなければ」
よほど急いでやって来たのか息の上がり方が尋常ではない。
「荀攸ど」
「失礼」

ぎゅ、と抱きすくめられ放心。驚きと嬉しさと焦りが全部ないまぜになって、絞り出した言葉は「か、賈殿が、み、見て」なんて雰囲気も色気もあったものではない、ぶち壊しだ。

「いつからか、あなたは俺を公達と呼んでくれなくなった、気を遣って公私を弁えているのだろうと俺も深くは追求しなかった、それがいけなかった、俺がそばにいて欲しいのはあなただけだ、もう一度呼んではいただけませんか、俺の名前を、昔のように」

込み上げるものを全部余さず詰め込んで、絞り出した声はとても震えていた。

ついったからの再掲
20211201
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