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都内では珍しく震えるような気温となった4月、誰もがしまい込んだばかりの冬コートを慌てて引っ張り出したらしく、クリーニングのタグを付けたままの阿呆を何人も見かけた。入学式を終え、授業案内のガイダンス、オリエンテーションもつい最近のことだというのに随分と遠く感じられる。

時間割も決定し、授業が本格的に始まる直前の日々、合コンや飲み会が目当ての名ばかりサークルの勧誘が跋扈する校舎の出入り口は、やはり狂ったような勧誘のポスターが汚らしく煩い配色でひしめき合う。

どんな名門大学でも低俗な人間は必ず存在する、私は英才教育を受け選ばれた存在、輝かしい軌跡に汚点を残すような失態は絶対に犯さない、しつこい勧誘の輩に『黙れ外道が』ときつく言い放てば豆鉄砲を喰らったような顔をして引き下がっていった。

鼻に掛かったような気色悪い声、品の欠片もない笑い声、浮かれたバカ共と群れ合うのは御免だバカが移る、早々に帰ろうと歩みを速めたところで苛立つような喧騒の中から透き通る声。

「鍾会?」

胸の奥がぎゅっと締め付けられるこの感覚に戸惑いが隠せない。

「士季、ちゃん?」

おずおず、と言ったように控えめな音量で呟かれた名前、親しい間柄でしか使わないあだ名、知っていてそれを使う人間は家族とあいつしかいない。

振り向いて息を飲んだ。

「やっぱり士季ちゃんだ、ねえ私、なまえ!覚えてる?」

安堵したなまえ、忘れるわけがない、あんなに一緒だったのに。生まれた時からずっと、一番近くに常にそばにいたんだ忘れる方がどうかしてる。息をするのさえ忘れてしまったかのように胸が苦しくて、とっさに言葉が出せずその場で固まってしまった。

「士季ちゃん?」
「あ、ああ……」

なまえ、中学以来か。

「すごい背が伸びたね、髪も伸びた?同じ大学だったなんて!」

空白の高校3年間、なまえとは違う高校だった、見ないうちに随分と綺麗になった、女というのはたった3年でこんなにも変わるのか。

「また仲良くしてね!」

あの頃から変わらない恋い焦がれ続けた笑顔、別れ際に払い除けた笑顔。

「そ、そうだな、昔のように良くしてやってもいい」
「士季ちゃんはいつも優しくて博識で何かとドジばっかり踏んでた私の世話焼きしてくれてさあ!」
「お前は昔から鈍臭かったからな、つい手を貸してしまっていたな」
「鈍臭いってひどいよー!」

品の欠片もなかった女達とは違う、僅かながら憤慨したようにくすくす笑うなまえの方がずっと綺麗だ、ずっと昔に閉じ込めておいた物、気が付けば全て外に出てきているようだった。

誰よりも賢く、何よりも尊く、どこよりも早く、どんな時でも冷静さを欠かさず、過去から学び同じ失敗は決して繰り返さない。

我が家の家訓はまるで憲法のような力を持っていて、それの下で育った自分はどこの世界でも我が家の憲法のような家訓は当たり前なのだと信じきっていて、それは異端なのだと気が付いたのは中学生の思春期前だった。

気が付いたとしても自分にとってはそれが普通であるから、他人と違っていることに悲観などするはずもなく、むしろこの家庭に生まれた自分は特別であり、選ばれた存在であると改めて実感する。

更に家柄がいいとやっぱり厳しいんだね、と誰かに言われた覚えがあるが、『やっぱり厳しい』という言葉の意味がイマイチ理解出来ず、理解が出来ない事柄への苛立ちを覚えていたのは確かだ。

学友も選んで今思えば親友などと言える友人は一人もいなかった、だがそんなことはどうやらどうでもよかったらしい、私のそばには常になまえがいた、生まれた時から一緒にいたあいつに心底傾倒していたのだと思う。いわゆる幼馴染、この関係は恋だの愛だのそんな軽々しいものなどではなく、もっと重く深い。

"士季ちゃん"

親しい間柄でしか使わないあだ名で呼ばれ、覚束ない足取りでいつも後をついて回り、何かと慕ってくるあいつを放っておくことなどできるはずもなく、甲斐甲斐しく世話を焼いた。

なまえはまっすぐで素直、私の真似をするのが楽しかったのか、勉強面では私の次に成績がいい、両親同士も幼馴染ということもあってか、お互いの両親から私達は可愛がられていた、本当にいつも一緒だった、なまえの周りには常にたくさんの笑顔と活気が溢れていて、私はそれに甘え過ぎていたのかもしれない。

なまえの父親が転勤すると聞いたのは、中学の受験シーズンに入った頃、当然なまえも同じ高校に入り共に栄達の道を歩むものだと信じきっていた。ごめんねと謝られたがお前は何も悪くない、悪くないのに当然と思っていたことが当然でなくなってしまったことに焦燥感と、行き場のない怒り。

綯い交ぜになった喪失感と不安、私は幼過ぎた、自分の感情すらコントロールできなかった。

「もう知らない、お前なんかどこへでも好きなところへ行ってしまえ」

本当はどこにも行ってほしくなどなかった、ずっと一番近くにいてほしかった、その時のなまえの表情は今でもたまに夢に見る。

愛していたんだ、心の底から。

「あの時は、ごめんね士季ちゃん」
「は?」

古い記憶に気を取られ、急に謝りだしたなまえに面食らう、謝りだしたその表情が昔の、あの時と同じものだったからざわざわとした罪悪感が胸を締める。お前が悪いわけじゃない、そんな顔するな、私の方が惨めになる。

「な、何を急に」
「ほら、うちのお父さんが急に転勤になっちゃって、本当は高校も同じところに一緒に行けると思ってたし」

あの時、すごく怒ってたでしょ?

そう言うなまえは気まずそうに視線を少し横にずらした、あれは完全に八つ当たりだ、私やなまえの力ではどうすることも出来なかったこと、むしろ謝るべきなのは私なのだ。

「あれは……」
「手紙とか電話とかしようと思えば出来たんだけどね、でも士季ちゃんにもう知らないって言われちゃったし、しつこくしてもっと嫌われちゃうのも怖くて」
「なまえ……」
「でも偶然だったとしても、また一緒になれて嬉しいなあ!」

昔からこの笑顔に支えられてきた、これがずっと自分だけのものだと思っていた、いいや、これからも私だけのものだ。

「未熟だった私の発言なんか忘れてしまえ」
「え?」
「今後、また世話してやってもいい」
「え、え!?」
「その代わり、もうどこにも行かないと誓え」
「う、うんっ!行かない!士季ちゃんといたい!」

自分が悪いとは思っても、独りよがりな高圧的態度は崩せない、それも含めてなまえは全部笑って頷くとわかっているからだ、どんな理不尽なこともポジティヴに捉えてくれる。

「私ね、ずっとずーっと士季ちゃんのこと好きだったんだよ」
「なっ!」
「高慢ちきで傲慢で素直じゃなくて意地っ張りで嫌味ったらしくて」
「え、待っ、ちょ……」
「でもね、いつだって私にだけは優しかったから、それがすごく嬉しかった!」

知ってたぜんぶ
まるごと好きだと
彼女が言った。


20130930
20200422修正
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テーマ「人外ファンタジー」
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